December 11, 2006

犯罪被害者遺族の癒しを考える。

居心地があまりによくてほんとにお世話になっている白石ゼミの後輩が中心となって動いている犯罪被害者の講演会およびメッセージ展に行ってきました。

講演会の方は二週にわたって、先々週は桶川ストーカー殺人の遺族の母、あと東名で飲酒トラック追突事故で愛娘を二人一度に失った両親、そして先週は埼玉で集団リンチで殺された遺族の母、そして栃木で同じく集団リンチで殺害された遺族の父です。私の涙腺がもともと弱いこともあるんですが、正直涙なくしては聞けなかった。メッセ展も全部見切れずに二日かかって見て回りましたが、とくに親が子を思うメッセージは胸をぐっとつかまれるものが多かった。・・これを「気持ちが痛いほどわかる」と言ってよいのかな。

突然、しかも理不尽に肉親を奪われた遺族の話を聞くと、被害者への権利や法整備など「硬く守るべきもの」が本当に不十分で、かつ「柔らかく守るべきもの」である世論やそれを方向付けるマスコミ報道自身にもまだまだ配慮が足りない現状を痛感しました。とくに「警察への不信」はどの場合も共通していて、被害者感情への適切な対応がほとんどなされていないことを、どの遺族も訴えていましたね。またマスコミに対してもあることないことを広く流して風評被害を受け、不信も非常に大きいとのこと。ただ同時にマスコミに対しては、たとえば鳥越俊太郎の名前を挙げて、娘の名誉を回復するようにつとめてくれた人もいる、ということを話されていた遺族の方もいました。

私は法律なるものは本当に不得手なので、法律の学説等々の話はあまりわからないのですが、何でも日本の刑法では、加害者は被害者に対する罪として罰せられるのではなく「国家」の秩序を乱したことで罰せられるそうで、この観点からすれば、被害者への視点というのがもともと薄いとのこと。警察の対応も、もしかして被害者よりも「国家」みたいな得体の知れない曖昧な「想像の共同体」に意識を絡みとられて、目の前にいる被害者への感情がどこか鈍くなってしまうのかなぁと、素人ながらに思いました。・・このあたりは、あまりに素人なので、大それたことは言えないですが。。

で、現実的に被害者は生き返ることはなく、遺族は痛みを常に伴いながら生きなくてはならない。そこで私は菊池寛の『恩讐の彼方に』なんてのを思い起こしてみたんだけど・・被害者のことをあまり知らずに安易にあれを出して、「解のひとつ」だと言うのはやはり違うなと思いました。結果はきれいなんだけど、そこに至るまでの加害者・被害者の苦しい過程をまったく見ずに話をしているところが大きな反省点。もしかして目指すべき理想の形ではあるかもしれないけど、なかなかそうはいかないのが現実だということを改めて痛感した次第です。・・こんな反省から、私のような素人が考えるべきは、こんな最終形を追うことより、何をすれば遺族が癒されるか、という点を深く考えることかと思いました。

・・まず、そのような事件が起きたときに被害者遺族の癒しのためになされるべきことを考えてみると、まず、一番に①加害者の贖罪があって、その上で②警察の適切な対応、③マスコミの公正な報道、④遺族への支援、そして⑤法整備、という要素がそろって、ここで初めて被害者の癒しにつながるのかな・・と思いました。①から⑤までそろって初めて形が浮き彫りにされる、ということで、いつぞやゼミで言われた「螺旋モデル」に対抗して、「五芒星モデル」と命名してみるけど・・(ちなみに五芒星は★のこと)。

結論として、後輩に感化された部分もありますが、被害者に寄り添う視点ってのがもっともっと重視されるべきだとたしかに思いました。このあたり、裁判員制度の理念と重なるところがあるんじゃないかな。

来年から「命」に関して何かを考えさせる教師をやる身としては非常に勉強させてもらったところです。素直に後輩に感謝せねば^^

・・長くなりましたが、これについては以上で。

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September 06, 2006

男児出産で思うこと。

まず子どもが生まれたことは大いにめでたいことですね。
それは大前提で・・とくに右翼(とくに天皇崇拝団体)は大喜びでしょうな。

男児出産で紀子が将来的に皇母になるというわけで、雅子および愛子はこれからは蚊帳の外に置かれるわけですね。いまオランダで静養しているというのは、ちょうど出産の時期と重なって心労が重なることを危惧した宮内庁が手配したんじゃないかと思われます。宮内庁、ナイスプレイ。
当然、帰国時にはインタビューはシャットアウトでしょうね。

これで皇室典範の議論は少なくとも十年以上先送りになるわけですな。重要な議題を差し置いてこの手の議論をしなくて済むことは喜ばしいことだけど・・

しかし平成のこの世の中、男女同権の進んでいるなか、「万世一系」なんてアカデミックの世界ではもはや妄想に過ぎないことがわかっているのに(古代研究者・高森明勅は奈良時代の元明天皇のあたりで女系天皇と見るべき流れがあることを指摘しているしね)、伝統うんぬんで男児を期待する風潮はどうなんでしょうね。たしかに相撲の世界では女子は土俵に上がれないというしきたりがあるわけだけど、それは相撲という一般の国民と切り離された世界だから成り立つ競技だからであって、天皇なるもの国民の総意の象徴であると明記されているなか、平沼ほか、なにより国会議員が伝統を振りかざして時代の流れと逆行するようなことをするのはかなり違う気がします。

この間は加藤紘一の実家が右翼に燃やされるし、なんで天皇の問題になるとこうおかしなことになるのか。戦後解決できなかった一番の問題、なのかもしれません。

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July 25, 2006

「南びわ湖駅」対立の考察。

滋賀県で起こっている、知事と県議会議員・周辺自治体首長との対立から考察を。以下は、詳細な背景(近年顕著な京都・大阪へのベッドタウン化、それに伴う人口増加など)からの実証的な考察というより、大局的な政治思想の視点からの考察です。この問題は、これからの日本における地方自治を考える上で重要な事例になるはずです。

この対立は新幹線の新駅(米原-京都間の「南びわ湖駅」)の建設是非をめぐるものですが、この新駅建設にむけての基本的な立場として、知事は建設凍結派、県会議員・周辺自治体の首長は建設推進派であり、また滋賀県民は「凍結派」の知事を選んだことから大部分は凍結を支持しているそうです。

マスコミの姿勢を見ると、たとえば朝の『あさズバッ!』にしても『やじうまワイド』にしても、「ムダづかい」とは言わないものの巨額な公共工事に対しては批判的な視点でのコメントが多く、どちらかといえば知事を支持する人が多いという印象ですね。またコメンテーターとして出ていた安倍応援隊長の某政治家は、自身の立場もあることからどちらにも与しない立場をとりながら、しかしどちらかというと民主主義の理念を謳い、地方自治は県民・地元の人の声をよく聞くべきだ、というあたりさわりのないコメントでうまく切り抜けた、そんな感じでした。

この手の問題というのは、「費用回収が望めないムダな公共工事はやめるべき」という、最近とくにマスコミが旗振りしている世論と、地方における「政治家と土建屋の結び付き」という経済的・構造的問題への非難という点が必ず建設推進派への批判の論拠になります。また「凍結派」の知事を選んだことで「県民の声は凍結である」という民主主義の精神のような政治的な観点からも批判の論拠になっています。前者においては「日本の財政赤字拡大」、後者においてはいわば「(直接)民主主義」という点から、双方とも「マクロ」な視点から見て、批判をしているといえます。

では「ミクロ」な視点でみるとどうでしょうか。自治体は何らかの産業活性化策を講じてその自治体内の企業に仕事を提供することが求められます。仮に今回の新駅建設にあたって、一次発注先が大手ゼネコンだったとしても、その下請けに必ず地元建設企業が入ることになるから、企業へ仕事を提供することが可能となります。そしてこの効果は直接的に建設会社だけでなく、間接的にその他の地元企業にも波及する、いわゆる「スピル・オーバー効果」(シャンパン・タワーを想像してみてください。上からシャンパンを注げば溢れて徐々に下の器を満たしていきます)で経済効果が期待できる部分もあります。そして仕事ができるとなればその会社に勤める従業員とその家族を経済的に保障することができます。こうした経済的観点は「推進派」の一番の論拠ですね。また政治的にも、滋賀県民全体では建設反対が多くを占めたかもしれませんが、その地域における住民は建設推進を願った部分がきっとあるわけで、その声を受けた県会議員や自治体首長がその住民の声を届けるという「(間接)民主主義」の精神を遵守しており、こちらも推進に対してはそれなりの論拠を持ちます。

・・もっとも現実的には、土建屋から政治資金を受けている部分もあって本来の「議員」らしい行動ができずがんじがらめになっている点は否めないでしょうし、一番の論拠である経済効果にしても、先に挙げた「スピル・オーバー」を取り上げれば最近その費用対効果を疑う声もよく聞こえてきます。

単純化しすぎるきらいもありますが、「マクロ」は県および日本全体(公共性)を考える、「ミクロ」は自分たちの生活(共同体)を守ることを考える、という風に色分けが出来るかと思います。ここで大事な点は、目先の利益を実現するのか、それとも日本全体を考えて増税などの痛みを取り除く努力をするか、という点です。未曾有の財政赤字は、もし返済不能ということになればたちまち経済・金融が破綻し、まっとうな企業活動を出来なくさせ、生活の保障が失われることになります。もともと財政赤字というものは日米構造協協議で内需拡大を約束させられて、海部内閣以降土地開発・建設に採算性を度外視して多額の投資を行ったことが原因であることは幾多の分析のもとに自明であり、その傷口をさらに広げてはならないはず。頭でわかっていてそれができないのは、政策決定者とその支援者のもたれあいにほかならないわけですが・・

私のこの問題に対する一番の関心事は、議会と行政が蜜月で進めていた「土建国家」「箱物行政」に知事が市民のNOという声を使っていかに覆していけるか、という点です。これはドロドロの「ミクロ」に倫理的な「マクロ」がどのくらいくさびを打ち込めるかの勝負、と言い換えられるでしょうか。はっきり言って、いまや「民主主義」というのは善にも悪にもなる政治体系でしかありません。「ミクロ」(共同体)の中で「民主主義」で選ばれた議員は土建屋と結託し、そして「民主主義」の決定方法で決められた土建政策は県民や国民の税負担を重くしている。これらはすべて民主主義の大義名分のもとに生まれた「落とし子」ですよね。これを政治の本来あるべき姿に近づけるには、大きな「マクロ」(公共性)による外科手術が必要でしょう。とにかく共同体をよりオープンにする必要があると思います。

#具体的には、やっぱりマスコミをうまく使って「県民の声」の大部分が凍結を望んでいることをアピールして、いわば「勝ち馬に乗らせる」格好で世論の支持層を増やすのが、公共性の観点からも直接的に推進派を黙らせる一番の方策ですかね。

もしこれが成功したら、地方自治体が土建国家から少しでも抜け出すよい「前例」になると思っています。もっとも、その対象自治体と土建会社のケアもしなければなりません。地方分権の時代は、きっと「各自治体」(共同体)のことを考えること、そして同時に「日本全体」(公共性)のことを考えること、この2つの軸の中でどう自分たちが望むものを実現していくかがポイントになると思われます。私の意見を言わせてもらうと、やはり「共同体」から発展して「公共性」という概念を構築し、共有できることが望ましいですよね。そしてそれに貢献するのが「公教育」であるわけですが^^。これはまた別の機会に書きます。

この滋賀県における新駅をめぐる対立、ぜひ今後の成り行きに注目したいと思います。知事さんに期待大。

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January 05, 2006

株で思う。

今日の前場は、ハイテク株が集うナスダックが好調だったせいもあって、電機各社の株価が軒並み上昇。私の持っている電機メーカー株もかなりよい伸び率でした。

・・といっても私の場合、株券売買でちょっとあたりが出てしまったがために、それに味をしめインターネット取引を始めてみたら見事に赤字が積もった、ということで累積赤字解消にむけて鋭意努力中なのでございますが^^

先日のみずほ証券トラブルで、同い年のトレーダーがワンクリックで20億円稼いだとか。でも、考えてみるとそのためにはある程度の投資資金が確保されていなければならないわけで。「金持ち」がますます「金持ち」になるという資本主義のマジカルロジック。しかし市場は万人に開かれているという「機会平等」の建前。

・・なんだか教育社会学と相通ずるものを感じるなぁ。

そしてパソコンをクリックするだけでサラリーマンの年収の何倍も金を稼げるようになると、「労働」という概念はいったいどこへ飛んで行くのやら。

こういう倫理感や義務・権利の概念の変革を迫るのが、本物のIT革命の正体なのかも、なんて思います^^これが良いことか悪いことかの議論は抜きにして、社会がそう変わっているのだからそれに倫理観なり権利・義務感を対応させていかないといけないことが急務なわけで。そういや自分も去年まで、悪い言い方をすれば、営業マンとしてその「片棒を担いで」いたわけか。たしかにこんな世の中で大上段から「真面目に働け」とはたしかに言いづらい・・。

でも逆に、「勉強」しろ、と強く言える世の中になってきたと思えます。『ドラゴン桜』ではないけれど、何も知らない無知な奴が社会でも反故にされ、会社のような組織でも負けていくし、あるいはそういう組織から逃れたとして金を稼ぐために株に手を出したとしても、株の取引を有利にするための情報はかなり多角的・多分野にわたっており、それなりの知識が必要とされるため、学ばない人間はこの世界でも負けていく。だから勉強しろ、というふうには強く言えるようになっているのではないかと。

なんのために「勉強」するのかという議論は、経済・社会的な視点から、そして文化・精神的な視点から言われ続けていますが、はたして教育の現場でどう伝えられているか。将来的に、生徒の骨になり血になるような「語り」なり「経験」はあるのだろうか、気になりました。もっとも、生徒もそんなことをその年齢で真正面から取り組むなんて人はいるわけないので^^、あくまで「少しでも考えさせる」くらいのレベルにとどまるのでしょうが。。

こういうとき、教職一本の先生より企業経験者・社会人経験者が生きてくると思われます。経験談・体験談ほど生徒の体にすっと落とし込まれるものはないわけですし^^。ここから教育政策・制度的なものに提言するとすれば、社会人経験者の相当数確保、そして同時に実践的な指導力を保証する教員免許以上の資格(教職修士号)などを設けて教員採用者はその取得を目指すようにする、等が言えると考えます。・・また最後はこの話かよ、と書いてて思いましたが^^

さて株取引。後場もこの調子で電機メーカー各社には頑張ってほしいものです。

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December 11, 2005

宇治・小学生刺殺事件に思うこと。

今日、宇治で大学生が小学生を刺殺したという報道を聞いた。

聞いた報道をまとめると、包丁や金づちを事前に用意して計画的に小学生の女の子を殺す準備をしていたようだ。言葉は悪いかもしれないが、なにを小学生相手に本気になっているんだろう?と思わずにはいられなかった。 さらに特筆すべきは「同志社大生」であるいうこと。西の早稲田。偏差値も高く、言わずと知れた有名大学であるわけだが、もはや「スーパーフリー」と同様に犯罪を犯す人間の大学名は関係ないのかもしれない。

結局原因は人間としての「耐性」が弱くなっている、つまり我慢弱くなっていることからなのか。あるいは「情念」深くなっている、つまり自分の思い通りにしたいのにならないから刺したということなのか。

直接その大学生を知っているわけではないのでここから先はまったくの推測になるが、現代の若者の特徴として教育研究者や心理の専門家の分析として挙げられるものまとめると上のようなことが言えると思う。だとするとその原因としてこれもよく挙げられるのは、幼少期の「過保護」や「虐待」である。マスコミは「(その大学生がむかし)よく口論して食器が割れる音がした」などと近隣の人の証言をつかまえて「昔から家庭内に問題があった」的な方向にもっていこうとしている感があるが、それは事件の要因を正しく伝えているようできちんと伝えていない気がする。

この犯罪は、近年非常に増えている「普通の家庭の普通の子が突然凶行を起こす」というパターンに該当するものだろう。上の「過保護」・「虐待」のうち、「虐待」はなかったと思われるので前者に的を絞って述べると、子どもにとってその緊張状態から逃げるために、幼少のときから親など「管理者」の目を盗んで「不法行為」をはたらきながらどうにか精神のバランスを保つようになる、ということが分析されている。さらに常に守られすぎて育つことで他との摩擦があると巧く対処できない。その結果、自分に不都合なことがあると感情を抑えきれず、人格の中にある犯罪の芽が突然大きくなり突然あらわれる、このようなメカニズムがあるそうだ。また「過保護」でなくても常に親が子どもをガチガチに統制するという状態でも、緊張から逃れるために・・ということで同じことが起こる。

・・人間の行動なり人格をパターン化してしまうことに抵抗を感じる部分はこれを書いている私当人もあるのだが、現代は、とくに高学歴の若者においてこのような傾向で育てられた子どもが多いだろうし、かなりの確率でこの「予備群」は存在すると思われる。私も含めて。これから数年間、いや数十年間はおそらく類似した事件が必ず出てくるはずである。

話を戻すと、結局彼は「自分が拒まれたこと」「思い通りにならないこと」が引き金になって、私に言わせれば、たかだか小学生の「ガキ」に本気になって憎悪の念を募らせた「未成熟」な人間だったのではないか。外見や経歴は一応は立派でも。

大人になってどう矯正するか、というのは大きな未解決のテーマであり取り組みも多くなされているが、実際に成果をあげられるかを考えると非常に難しいといえる。それよりそんなことにならないよう「予防策」として子どもの教育でどういう教育がなされなければならないかを検討し実践することの方がはるかに効果的だろう。先に子どもの教育で心がけなければならないことを一つに集約して言葉にすれば、それは「節度ある突き放し」であるそうだ。これは昔、少年院を訪問して提出したレポートにも書いてブログにも勝手にアップしたので、よろしければこちらをご参照いただきたい。

今回は以上。

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November 07, 2005

NHK記者の事件によせて

NHK入社2年目の若手記者による放火事件はかなりの衝撃を与えている。本来事件を報道することを通じて「防犯」意識の高揚をはかるために仕事をすべき記者が、まさか自ら放火するとは。おそらくそれを自分の持ってきた「スクープ」として報道もしていたと思われる。記者としてもちろんあるまじき行為であり、彼の「人間性」を疑ってしまう。

・・と書いたものの、あまり世の正義を振りかざして彼を断罪する気はさらさらない。むしろ彼が事件を起こしてしまう心境の一端が私もわかる気がする。もちろん、事件が起こった際には犯人に同情論がよく出てくるが、まずは私もその「一味」として思うところを述べたあと、ただの同情論を超えて、この事件の背景にある考察すべき点を挙げて検討したいと思う。

まず同情できる点について。私も会社にいて仕事をする中であまりに多忙すぎて、どうにもいたたまれなくなりやぶれかぶれにアウトロー的な行動に駆られることが何度もあった。もし私がそのアウトロー的な行動をして事件を起こして報道されることがあれば、私の人間性なんてすべて否定的な見方をされる。(むろんもともとよい人間性かどうかは疑問であるが)

彼も入社当時は非常に意欲的で人間味あふれる人間だっただろう。実は私もNHK記者職の入社試験を受けて落ちたということもあり、どれだけ彼が意欲も能力も持ち合わせているか容易に想像できる。そもそもそういう人物でなければNHKも節穴ではないのだから入社なんてできないはずだ。でも事件を起こしてしまった。それは彼のもともとの人間性を問題にするよりか、仕事をしていく中で体と心を壊していったことを問題にすべきだと思っている。人間、あまりに追い込まれると、本来なら間違ってもやってはいけないタブーを犯してしまう。こうした姿に自身もかつて経験したことを照らし合わせて共感が沸き起こってくる。

#少し反れるが、私が関心を持つ教育でいうと、事件を起こす問題教師のたぐいも「人間性」に問題があるとする考えが中教審の答申やとくにマスコミの言説に見られるが、そもそもそういう問題のある人は教採の時点でハネられるのである。「多忙感」による「自己閉塞」とそれによる「違法行為」、これが教員病理の本当の姿なのでは、といつも考えている。

ここから関連する別の事件に触れて考察したい。

ひとつは、少し前にあった朝日新聞長野総局の、これまた若手記者による記事捏造事件(事件内容はこちら)である。これも原因は同根かと思う。今月号の文藝春秋に、朝日新聞の体制を非難する記事が載っているが、なんでも事件を起こした記者は、レイアウト・修正などを担当する「整理部」が縮小されたここともあり、代わりにその仕事を泊まり勤務で行うことになっていて、その出勤時間が差し迫ってきたために取材を行わず虚偽の取材メモを提出したという。要は、会社の人員削減という経営方針によって記者の仕事を安易に増やしたことが原因の大きな一端なのでは、とする論調であった。あまり取り上げられないが、きっと彼も多忙感に襲われていただろう。普通であれば守るべき記者として「モラル」を逸脱してしまうくらいに。

もちろん、若手自体が「モラル」を失っているという論もある。道徳観が弱い、個人主義が跋扈してわがまま、というのはたしかにそうかもしれないし否定できないが、それより私はこの点を指摘したい。いまの会社なり組織が昔と比べて変化している。すなわち「スリムな経営」という人員圧縮と、「即戦力の人材志向」による育成期間の減少。人もいないし、長い目で成長を見ないという企業文化になりつつある。とくに後者はものすごいプレッシャーを入社早々から与えるものであり、前者が実質的に「多忙」になる原因である一方、後者は「多忙感」を募らせる原因となるものである。社内でも個々人の成果追求のために先輩→後輩の教育機能が弱くなった感がある。もちろん人によって感じ方も異なるから一概には言えないが、みな若手は仕事をする上での営業なら営業としての、記者なら記者としての「精神」を身に付ける前に追い立てられるように常に成果を追い求める。朝日の記者も、そしてNHK記者も、この点で自分の体と精神のバランスを崩してしまったのではないかと思われる。事件のインパクトが強く、報道関係者は注意が喚起されるだろうが、このままこの経営が続いていくと、しばらく後にはまた第二・第三のNHK・朝日事件が間違いなく起きるはずだ。

いま上に書いた内容をまとめると、「多忙感」と「企業経営」の関連性、という言葉として集約できる。マスコミはとかくNHKや朝日の経営方針や体制を叩くことばかり夢中になる報道傾向(というか癖)があるが、もはや経営体質を変えることは時代の流れとしてまず困難である。だから焦点とすべきは、そのような経営状況の中で生まれてくる多忙感とそれが人間性を狂わせるプロセスであり、どうすればそれから解放・改善できるのか、個人レベルで考えても袋小路に入ってしまうこの難点についてであると思われる。これらの点についてどう対応していくか、しっかり検討が必要だと考える。

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November 03, 2005

会社人生論

父の勤めていた会社が不況の煽りを受けて分割・合併を余儀なくされたそうだ。日本の戦前から続く電機メーカーの一部上場の子会社で、従業員は2000人以上。この分割を受けて従業員はSEならH社、営業はS社、というようにそれぞれ受け入れ先が異なるそうな。一般には1000人以上の会社を広く「大企業」と分類するそうだが、そのような「大企業」でも分野によってはこのような状況を迎えてしまう世の中になってしまったようだ。私もよく認識していたつもりだが、身内の勤務先がこうなるとより一層痛切に感じる。もっとも、すでに父は分割前に退職しているのだが。

会社がこのような状態になると、社員は相当動揺するだろう。若い人は(とくに技術系の人間は)やりたいことがやれれば会社はどこでもかまわないと捉える人も多いかもしれないが、とくに35歳以上の課長クラス以上は新しい会社に移ったとしても新会社にそもそも自分のためのポストがそのまま残っているわけでもなく、限られたポストにあぶれた人は苦渋の思いであろう。また分割・新会社設立にあたっては、もはや日常茶飯事のことのようになってしまった「リストラ」も断行される。対象となった人はこれまでの安定した生活基盤が失われてしまうわけだ。もちろん再就職の世話を何らかの形で会社は後押しするだろうが、もともともらっていた給料を確保することはもはや不可能だろう。何十年も残っているローンを抱え、自分の行く末、そして自分の抱える家族の行く末などに暗い影がさしこむのは言うまでもない。

私の父はもともとこの会社の親企業に勤めていた。日本で知らぬ人はいないと思われる有名大企業である。そこで営業畑でキャリアを積み、金融業、とくに銀行担当だったので、たまに出る仕事の話は「興銀」「東京三菱」「みずほ」なんて会社名が出てくるなど、日本における金融の中枢のシステムに関われる自分を多忙ながら誇りにしていた感がある。そこそこのポストに就いて50歳を過ぎた頃、通例のごとくその会社を退職し、子会社に出向、そして今回の事態を迎える前に退職した。まあ、言葉は悪いが「先見の明」がもしかしたらあったのかもしれない。もっとも、その情報を知りえるポジションにいたことはたしかだから、当然といえば当然かもしれない。で、現在休職中である。まだ定年までは数年あるし、とりあえずハローワークに通っているようだが。。

結局、いまの父を見ていると最も輝いていたのは本社にいるときのわずか数十年、いや数年に過ぎないのかと感じずにはいられない。むろん、会社に勤めているからこそか輝けるという部分はあるだろう。もしその会社に勤めていなければ輝きなんて持たずにいたかもしれない。「学生運動を経験している世代」は・・と括っていいのかわからないが、会社にすべてを委ねて会社と寄り添い生きていくことも美徳であったのかもしれない。

でも、私はどうもこれが受けいれられない。どうも疑問を感じずにはいられないのである。

結局、私も4年前某大手企業に就職したが、2年、3年勤めるうちに、(成績もよくなかったこともあり)私の行く末は結局父のようになるだろうと容易に想像がついた。しかも今やっている仕事は全然自分のやりたいことと違う。こう強く思い始めると、もうそれがどんどん自己増殖していった。で、現在はやりたかった教育分野の仕事に就くため舵を大きく右(左かも)に切ってしばらく直進している状態、である。正直、ツッパってしまったわけだ。弱い人間の癖に・・。

結局、長い目で見れば会社にいた方が幸せなのかもしれない。月並みな幸せは得られやすかったかもしれない。窪塚洋介がどこかのドラマで「今を生きろ」なんて言っていたが、聞こえはいいけどある意味ただの「刹那主義」である。今の勉強中心の生活はそれなりの充実感を感じているが、この先には教師になったとして生徒に嫌われ親に陰口を叩かれるかもしれない。研究者になったとしてろくな研究ができず「給料ドロボウ」なんて言われるかもしれない。

でも今の私の価値観は「自分の信じる道を行く」ことだと思っている。むろん、いまの世の中それを美徳しているのは周知のとおりだ。父の世代が個人の意思と信じて疑わなかったものも実は世の中の風潮が強く反映されたものであろう。当然私のいまの価値観も今の世の中の価値観と切り離せない。とりあえず、それにのっかって、これからを生きるしかないのだと思う。まあ「キャプテン翼」の岬君のセリフのとおり、「やる前に悔やむより、やってみてから悔やむ」方をいまは取りたいと思う。

・・・と父の会社がそういう事態になったことから思わず考えを張り巡らせてみた。

最後に・・東証のシステムがハングしたそうだが、これを書いている今、このときもその対応に追われる同期の営業・SEにエールを贈りつつ、私もしっかり「落とし穴」のないように勉強しようと思う。

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July 17, 2005

テロはなぜ起こったのか

イギリスで起こった無差別テロについて。

今回はイギリスで生まれ育ったアラブ移民2世が自爆テロを起こしたとの報道がされました。多民族国家であるイギリスではアラブ系の移民はたとえアングロサクソンと同様に教育を受けても社会で活躍の場を与えられないという現実があり、その社会的差別に対し恨み(ルサンチマン)が溜まっていたところにアルカイダの誰かが接触して「火」をつけた、というのが直接の背景のようです。思い起こせば、アメリカ同時テロの実行犯・アタ被告にしかり、社会で圧迫を受けるイスラム移民がテロに走る傾向が見えてきたように思えます。もともとどの社会においても移民には社会的差別は起こりうるものですが、近年問題なのは、この差別のルサンチマンをテロという形で復讐しようとする動きが如実に現れていることです。ではアルカイダのような原理主義グループは何を意図して「火」をつけるのか。

アルカイダに見るイスラムの原理主義(Fundamentalism)がテロの標的にしているのは、イギリス政府の対外政策に対してというより、抽象的ですがアメリカやイギリスという、経済的グローバリズムを推進し価値の一元化をはかる姿勢に対してだと思われます。「グローバリズム」というと最近のメディアやアカデミックなどどの業界でも流行コトバになっていますが、具体的に言えば、経済的優位に立つ者が宗教や文化やあらゆる価値を超えて一番権力を有し支配階層となるという世界規模での経済至上主義の論理です。さらに具体例を出せば、非常に金持ちなアメリカ人・イギリス人に雇われ、あまり裕福でないアラブ人が労働者として働くことが多い現状では、金の力でアメリカ・イギリスにイスラムが屈しているようにも捉えられる。

だからこそ攻撃対象は政府要人ではなく、イギリス経済や社会そのものが狙われたんだと思います。今回ねらわれたのがイギリスの金融市場の中心地に近い場所であることが象徴的でしょう。経済活動の具体的な主体は企業ですが、ひとつやふたつの企業だけがイスラム圏に進出しているわけでなく何百も何千もの企業が進出しているわけであり、一部の企業の上層部の人間を狙ってもダメージは少ない。このためイギリス経済を作り出す社会そのものにルサンチマンを貯め、それが攻撃の対象となった。そしてこれら経済・社会に深刻な打撃を与える方法・・として考え出されたのが一般人をねらう「無差別テロ」なんでしょうね。もともとはっきりした攻撃対象となる主体がないだけ無差別な志向をもった攻撃になるのだと考えられます。

現代の先進国における一般人は、自分達に直接利害があったり、もしくは危険が迫ったりしないと政治や政府の行動には関心をもたないことがほとんどです。日本もイギリスも投票率の下落が続いているのはそれを示すバロメータでしょう。テロが起き、危険がすぐそばまで迫っている事態になれば、一般人も危険への意識を喚起することで社会は急にてんやわんやになり、中には強行に政府を非難したり声を荒げる圧力団体もでてくる。となれば政府も当然のように推進してきた経済政策を見直さなければならない。

こういうことが連鎖していって結果、イギリス社会や対外政策の見直しが必然的に図られてくる。これが無差別テロが描く大きな絵なんじゃないか、と考えます。

これからも経済至上主義は止まらないだろうし、要はそれをイスラム側がどう受け止めるかってトコが重要なんだと思われます。そこで私はどうしても「教育」というパワーを持ち込もうとしてしまうのですが・・。しかし教育は万能ではないし、まして原理主義における自爆攻撃を人を殺めてはいけないという倫理面で止めることはどうにかできたとしても、原理主義自体が起こらないようにすることは極めて不可能であるわけだし。

根は相当深いですね。このままだと21世紀は、「経済先進国」対「イスラム」の世紀になるのかもしれません。

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June 28, 2005

サティ三郷店閉店への考察

私の地元・千葉県流山市の隣に、江戸川をはさんで埼玉県三郷市があります。電車は武蔵野線が唯一走っており、三郷駅が市の中心駅です。この駅のそばにあるサティ三郷店が今月末で閉店となります。この場所に店を構えてから今年まで26年間営業をしてきたそうな。昔はよく私の家族も橋を渡って買い物に行きましたが、最近は全然でした。今回は、私と同い年のこの店が閉店に追い込まれたことに関する(ほんとに勝手な)考察をしてみます。

まずこの店が閉店することになった一番の理由は、郊外にできた大型店舗のイトーヨーカドー三郷店の開店です。4階以上の建物に白壁がキレイな大きな売り場、しかもすぐ隣には大きなシネコンが併設されています。このイトーヨーカドー三郷店の6月上旬の開店と合わせてサティ三郷店は閉店することになりました。

何がサティを閉店させたのか。

(1)モビリティ

現代において、主婦が車を運転して買い物にくるのは日常茶飯事の光景です。重い買い物袋を抱えて歩いている人なんて最近ほとんど見ません。このためたくさんの車を収容できる駐車場をもっていなければなりません。この意味で、昔から駅前にあるサティはそれほど多くの収容能力を持ちません。一応、店舗のまわりに駐車場はありますが、入れる台数はスズメの涙です。となれば、車で買い物に来た人はただでさえ駅前で混んでいるうえに望まない渋滞に巻き込まれる。ただ買い物に来たのに渋滞、というとやはり買い物に向かう足を踏みとどまらせてしまう悪い影響が生まれてしまいます。だったらスムーズに入れる店に行きますな。

また、自動車は「客単価」の増加につながります。自動車での荷物の運搬は、これまで人が物理的に持てる量の限界を超えることができ、徒歩で来る客より多くの商品を購入していく傾向にあります。このため店としては一人の客が購入していく商品の合計額が増加し(=客単価の増加)、非常に望ましいわけです。

たしかに駐車場用地を大きくするとそれにかかる固定費用は増大します。が、このイトーヨーカドーを例にすると、①郊外にあるので土地単価が安い、②駐車場を5階建てにして土地面積あたりの収容能力が高い、という作戦でうまくコストを抑えています。

こうしてみると、今から数十年前には駅前のこれらデパートは、やはり主婦層が自転車で買い物に来ていたところ、その交通手段が自動車に変わったがために、それに対応できる土地や敷地を用意できなかったことにサティ三郷店の苦難が見えてきます。

(2)店内改装

大手の店舗は、一年(もしかして半年?)に一度、店内の売り場の配置換えを行い、店の雰囲気を変えています。これはいつも来てくれる客に飽きられないよう、目先を変えて新鮮な店舗イメージを持たせるためです。これは一見地味ですが、意外と重要な売り場活性化の要素です。

サティ三郷店は、ニチイのときからほとんど売り場の構成が変わっていないようです。これではね・・。

また、やはり壁の色などもどことなく普段行く他のデパートに比べてかすんでいたり、はげていたりとあまりよい印象を持てないものになっていました。他のサティの店はキレイなんですけどね。。

(3)階数

残念ながらサティは2階しかありません。正しくはニチイが2階建てにした、というべきでしょうが。近年のデパートは、やはり階数が多く、それぞれの階が「※※売場」と意図的にわかりやすくしたスタイルに客が慣れているので、この2階の中にいろいろな店を詰め込むのは好ましくありません。また、経営的に店舗の土地にかかる固定費削減という観点からも、「大きな売場面積を持つ低階層」より「売り場面積は小さいけど高階層」が好まれるでしょう。

(4)人口の「中心部」の移動

現在、三郷は武蔵野線が唯一走っており三郷駅がとりあえず市の中心駅として機能しています。ただこの駅は市のわりと北側にあります。そしてここに登場するのが今年8月24日に開業する「つくばエクスプレス」と、その駅である三郷中央駅。この三郷中央駅から終点・秋葉原駅まで約20分で、都心に出るのに非常に便利。柏や松戸に代表される都心のベッドタウン都市は駅の周辺に人口が集中する傾向があるのはおわかりのとおり、今後この駅付近が市の人口の中心になっていくでしょう。しかもこの中央駅からだと新設のイトーヨーカドー三郷店の方が行きやすいというおまけつき。そうすると三郷駅のそばにあるサティの商圏は駅周辺に著しく限定され、従来並みの収益は上げられなくなるのは必至です。これでは経営は続けていけませんわ・・。

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サティ三郷店の閉店は、やはり「時代の流れに対応し切れなかった」部分が大きいと思われます。特にモビリティ、店内改装等によるイメージの演出、という2点はどうしようもなかった。これはこの店だけにあてはまるものでなく、静岡のヤオハンに代表されるような中小規模の食料品・衣料品販売デパートにも共通してあてはまると思われます。今回のように、郊外に立てられたイトーヨーカドーやイーオンのような大型店舗が業界を淘汰する。これは今後も続いていくでしょう。

しかし、これらの企業は「優秀」なんだとも思っています。特に、彼らに共通する「財務諸表」を意識した経営。すなわち、土地などの固定費や必要のないコストを押さえ、収益性を伸ばそうとするバランスの取れた経営は見習うべきなんでしょうね。もはや利益が上がらない三郷店はあっさりと切り捨てる、サティを展開するイーオンのそういう経営姿勢を見ることができると思います。おそらく、かつての日本的経営であれば、イトーヨーカドーが開店してもしばらくの間経営を続けて「やっぱりダメだ」となってから店をたたんでいたはず。当然、この間の三郷店における損失は増大します。ムダに損失を被らない。儲かる他店に資源の投入を行っていく。いわゆる「選択と集中」というやつですな。ここに財務諸表を意識した現代の経営の一端が見える気がします。

・・なぁんとなく、さびしい気がしてきました。

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June 10, 2005

ぷちナショナリズム

・・本来であれば「ワールドカップ進出」とか「祝☆日本代表」とか書けばいいのだろうが、そんなタイトルなんぞ絶対につけたくないのであえて別のタイトルをつけさせてもらう。

むろん、サッカー日本代表の話。あまりにわかりきっていてマスコミもわざと喜びムードという暗幕で覆っていると思われるが、アジアのあのレベルを勝ち抜いたところで、これは至極当然のこと。しかも考えてみればイランに現時点で負けてんよ?まずはホームでも勝つことを優先して考えないとさ。

テレビの「絵」のとり方について、いつも思うのだが、得点を入れたあとに必ずナカタヒデのカットを入れてますな。日本代表をつねに「斜め」見ている(と思わされている)彼のカットを入れることで、マスコミは自分自身の「免罪符」にしようとしているんじゃないだろうか。つまり、自分達で祝勝ムードを煽っているから、下手に危機感を募らせるようなコメントは出せない。そこで彼のコメントを使う。マスコミは公平な視点で放送してますよ、なんて姿勢をさりげなくアピールして。それでも、もともとの祝賀ムードは決して壊さない。タレント(K)を使って煽る煽る。

2002年の日韓ワールドカップのときも思ったけど、これは変わらないね。

ここでタイトルを引用させてもらったもともとの文献を紹介したい。精神科医・香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』。(概要はこちらへ)

前回の日韓ワールドカップや阪神のリーグ優勝の際、日本中でとくに盛り上がった。この中でワコウド達の盛り上がり方は今までにない、いわば異常なものだった。彼女の分析によれば、鬱屈した社会情勢の中で自己実現の道を見つけられず鬱憤がたまり孤立する若者が、このようなイベントに向けてそのエネルギーを一気に開放し、はけ口にしているそうだ。要は、日本代表や阪神じゃなくてもいい。対象は何でもいいから、ただみんなと盛り上がれる機会が欲しい。そういうワコウド達による、見た目は「ナショナリズム」のように見えて、なんてことはない、ただの盛り上がる口実がほしいだけの見かけだけの「ぷちナショナリズム」である。この「事実」を端的に精神科医の視点から分析した新書本である。

ちなみにこの著作は、いまや売れっ子の教育学者となった斉藤孝のベストセラーである『声に出して読みたい日本語』にも鋭いメスを入れていて、もはや日本の歴史とか裏のコンテクストから切り離された形でコトバというものだけ読み物にしていることを指摘し、さらにその意義に疑問を投げかけている。要は今の時代、スポーツにおいても、こういうアカデミック(ひどく大衆的だが)においても、これまで考慮されたり読まれてきたような国家的歴史的コンテクストから独立して(悪く言えば無視して)それをみんなで楽しんでいるという事実を見抜いている。秀逸な著作である。

上記のテクストで見逃してはならないのはマスコミの力である。いわば「みんながすぐに盛り上がれるイベントがあるよ、だから一緒に盛り上がろうよ」とまとめあげてしまう。「ぷちナショナリズム」を構成するにあたっての大事な要素になっている点を挙げておく。

私が思うに、わかりやすくて楽しい方に、そして即興性があってすぐに実現できる方に、ますます世の中は流れていってますなぁ。宗教もしかり。新興宗教なんてまさにそうでしょ。もうちょっと、布団を一枚めくればすぐそこに見える「核心」みたいなものを見ようとしないとダメなんじゃないの?と思ってみた。

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