October 08, 2005

「女王」の作り方・その2(女王の教室より)

「女王」の作り方・その2。念願の小学校教師になってからの阿久津真矢の人生を辿ります。教師として、母として、そして再び教師として。

2.母親時代

小学校教師になったものの、その当時は生徒と友達のような優しく、そして「甘い」教師だったそうです。叱ることもきついことも言えずに校長などから「もっと厳しく指導したらどうか」ということも言われていたり。(当時の教頭より) しかし彼女は変わらず友達のように接した。それでも親からの度重なる抗議、生徒(児童)が言うことを聞いてくれない・・という現代の学校に関わる一連のストレスを受け続け、それをずっと溜め続けました。理想と現実とのギャップに苦し見続けたんでしょうね。

そしてあるとき、爆発してしまったようです。体罰として。被害者とされるケガをした生徒が「先生に体罰を振るわれた」と告げたらしく、事実かどうかは不明ですがそれを機に小学校を去ることになりました。

私の「読み」としては、真矢は体罰をしていないと考えています。もしかしてあまりの疲れと多忙さに自己の人間性を奪われて、「体罰」という目に見える暴力ではなく、尾木直樹氏の言う言葉などによる「心罰」を気づかぬうちにしていたかもしれませんが、ともかく体罰はしていない。おそらくその生徒は他の生徒に怪我をさせられたのに本当のことを言えず、それを先生のせいだと言ってしまったのでしょう。周囲も「先生、最近様子がおかしかったし」と思い、真矢本人も「もう辞めることを選んでもいいだろう」と退職の方向で周囲が合意していった。これが辞職の真相なんだと考えます。当時、一緒になるべきパートナーもいたことですし・・

その後、真矢は結婚、出産、一人娘を授かりました。教師として果たせなかった教育への情熱をすべて自分の子どもに注ぎ、熱烈なスパルタ教育をしく「教育ママ」になっていったそうです。「私は一度失敗しているから」。これが当時娘と同級生の子を持つ母と話した言葉だそうです。夫婦仲は非常に悪かったそうな。夫が浮気していたのだそう。ここにも一人娘に愛情を注ぎこんでしまう原因があったんでしょう。

そして悲報。一人娘の交通事故死。娘さんは真矢の熱心な教育によって小児性のノイローゼにかかっており、一人でぼーっと歩いているところに交通事故にあったそうです。

・・相当思い悩んだでしょうね。自分のせい、全部自分、こんなことになるなら、あのときこうしておけば・・

子どものためと思っていたことがすべて子どものためにはならなかった。むしろ子どもを苦しめていた。夫婦も結局、離婚。あらゆるものを失った。

そんな真矢の心の奥に最後まで残っていたのは・・・教育への情熱だったんでしょうね。自分の娘では果たせなかった教育を子ども達に向けて。今度こそ失敗しない。いろんなものを失った人間が決意した「意志」は簡単には折れません。

このとき、彼女の心に「芽」が出はじめまたんでしょう。

3.「女王」の時代

・・ここからが本編にも登場してくる「前の学校」の話になります。決意を新たにして教壇に立った真矢。そんな真矢にあの生徒が現れるわけです。すなわち肩口から胸にかけて切られたあの傷。「どうして人を殺してはいけないんですか」。真矢自身、もう昔のただ優しいだけの先生ではありません。その使命感からはっきりとその生徒と向き合った。いや、向き合ってしまった。このために「事件」が起こる。

真矢も生徒も病院に搬送。看護婦の証言には「先生の方がひどい怪我をしていた」、「神様・・・誓いますから・・・」と言い続けていた、とあります。おそらく生徒が先に真矢に致命傷を負わせており、それに対し真矢も生徒へ何らかの傷を負わせてしまったのだと推測されます。それは深い傷を負わされながらも教師として自分が傷つけた生徒を気づかい、「神様、誓いますからあの子を助けて下さい。もう子どもを死なせたくないんです。」という看護婦が聞き取れなかったであろう祈りに繋がっているんだと思います。

退院後、真矢は「再教育センター」へ。そして現在の小学校に。・・ここから本編になります。

「子どもに復讐しに行くんじゃないんですかと思いました」。まだ教師を続けていることを聞いた、事件のあった学校のPTA副会長の言葉です。

むろん、真矢が教師を続けているのは復讐ではない。「教育は奇跡を起こせるからです」。この言葉こそ、いろいろなものを失った真矢の信念の、魂の願いなんだと思っています。

「女王」は教師として、そして母として親として、いろいろな経験をしたからこそ生まれ出たのだと考えます。これが理想の教師かといえば、そうではないのかもしれない。想いの強さが形になった一種の「権化」みたいなものですからね。でもその言動から現在の教育において本当に大切なモノは何かを考えさせてくれる存在であったと思います。・・私が思うにそれは生徒から生まれた「信頼感」にほかならないと思っています。

■この背景でわかる諸事実

●天童先生に対する態度

天童先生は真矢の若い頃の姿にそっくりだったことがわかります。過去の自分を冷淡に見ているであろう真矢にとっては、ある意味歯痒く写る存在であり、だからこそクールにあたったんだろう、ということが読み取れます。とくに天童先生の結婚で辞める、辞めないときに見せたクールさはときに酷いなぁと思っていましたが、これは既に自身で経験済みだったからこそ、なのですな。もうあちこちで指摘されていますが、天童しおり(てんし)、阿久津真矢(あくま)という対比がここにあります。さらに読み解けば、最初何でもわかってくれる弱い「天使」の先生から、厳しく正しく強い「悪魔」の先生になる、こういう過程を先生の成長として「伏線」で盛り込みたかったんじゃないかなぁと思います。

●和美の「アロハ」

和美の最後の台詞、「先生、アロハ~☆」のときの真矢の笑顔、あれはきっと教師としてだけでなく、自分の娘が新しい制服を着て中学生になった、そういう「母」としての喜びを真矢が感じたからこそ見せた笑顔だったのかも、と邪推してます^^ あれが本当の自分の娘だったら・・。そんな胸の内があるんじゃないのかな。

以上です。

(追伸)

いま大学院で勉強していますが、前も書いたけどこの研究科で勉強する人ってやっぱり何らかの教育的トラウマを抱える人が多いなぁ・・という印象です。進学の動機、あるいはこれからの進路は真矢ときわめて似ているのかも知れません。私はどうなのかな・・?

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October 05, 2005

「女王」の作り方・その1(女王の教室より)

女王の教室、というタイトルにある「女王」。すなわち生徒をすべて自分の統制下に置こうとする「悪魔のような鬼教師」としての「女王」。今回は改めてなぜ阿久津先生が「女王」になったのかの考察をしてみます。実在の人物ではなく、あくまで「資料」から読み取れるもので人間像をこれから組み立てていくのですが、どういう経験があの人間性や指導法に結びついていくのか、個人的に大変興味があります。参考は「女王の教室 the book 」より。番組終了から1ヶ月近くたつし、あえてこの本の中から要素を抽出して分析を試みたいと思います。(ですから本を読んでない方で内容を教えてくれるな、という方は読まないほうがよいです、と念のため。)

☆☆☆

まず人間の生き方を構成する要素は、私が思うに「能力」「環境」そして「経験」です。社会でしかるべき地位や職業に就くためにはベースとなる「能力」は不可欠ですが、その能力はうまく使われるか、あるいは使われないで眠っているかは周囲の「環境」によるところが大きい。しかしそれらは方向性を持っていない。その生き方の方向性やベクトルを決めるのが「経験」です。逆に言えば、「経験」によって方向性を定められた自分の希望が「能力」と「環境」とうまく整合して生き方が決定される。大枠としてはこのように考えられると思います。

1.小学校教師になるまで

まずは阿久津真矢が教師を志すまでについてそれぞれの観点でまとめます。先に感想を言えば、「辛いなぁ」という印象です。

●「能力」

容姿端麗、成績優秀、運動もでき「完璧」な人間だったようです。(小学生時代の隣人、および家庭教師の証言より) 目標次第で何にでもなれる申し分ない能力だったようです。天海祐希さんのイメージそのままですね^^

●「環境」

彼女の父は実業家で、実家は裕福だったようです。そして母は何も言わずおとなしい人間で、表に出るのはいつも父だったという家庭環境だったようです。どことなく普通の家庭との違和感を感じる証言も。(家庭教師) このような家庭環境だったためか、真矢は本当に人を疑うことを知らない人間であったようです。(同、家庭教師) 

●「経験」

いくつか事件があるのでそれを追っていきます。

  • 小学生のとき、父が「やり手」ビジネスマンだったためか取引先の社長が自殺。これを契機に「親への不信感」を募らせる(家庭教師)
  • それに続いて小学生のとき行方不明になるも隣町のデパートの屋上で発見される。予想だが、父にも母にも失望して家に居場所を見つけられずにひどく混乱しながら見知らぬ街で遠い空を眺めていたものと思われる。
  • 中学生のとき、親友に裏切られてレイプ未遂事件に遭い、以降友人を信じられなくなる。(家庭教師)

・・・ここから真矢は一人で生き抜こうとする意志が猛烈に芽生え、さらに自分のような人間を生み出さないように子どもの教育への病的なまでの熱情(passion)が湧き上がったようです。教師・阿久津真矢の原型がここに表れますね。

あとは教師に向けて一直線。高校時代は進路で三者面談も親が不在の中(おそらく真矢が来させなかったのでしょう)一人で一貫して地元から離れた国立の教育大を受験を担任に伝えています。(高校時代の担任) そして元来の優秀さから国立の教育大に希望通り進学。大学時代もやはり成績は優秀だったそうです。ただやはり友人はほとんどおらず、授業での飲み会の席でも普通はこういう席でもやらない「教育への熱い思い」を吐露していたそうな。教育実習後も興奮して「なんて子供たちはステキなんだろう」「子供たちを守ってやらなければ」という意欲に燃えていたそうです。(大学の同級生) 

こうして難関の教員採用試験にも一発で通過。こうして自身の望む、そして自身がもっともトラウマを感じてのちの人生を決めた小学校の教師として第一歩を踏み出すことになりました。

もし、ある程度「普通」の家庭で育っていたら、「人を信じすぎる」ことの危険性を生活の中で認識できたかもしれない。友人に騙されることはなかったかもしれない。そして自分自身を見つめようとせずに他の大きな関心に自分の可能性を開けていたかもしれない。自身の能力の可能性を別の分野で試すことができたかもしれない。私としてはこういう感想を持ちました。だからこそ「辛いなぁ」という印象に立ち返ります。

・・・以下、順次更新します。

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September 19, 2005

いま必要な教師とは(女王の教室最終話より)

女王の教室11話(最終話)より。卒業式と阿久津先生との別れと旅立ちのお話。

あくまで阿久津先生は卒業式もクール、でしたね。本当のことを言うと「仰げば尊し」のあと冷徹な「いつまで感傷にひたっているの?」という言葉には正直嫌悪感を覚えました。最後くらい生徒に、直前に思わず上を向いてしまった「人間」らしい姿を(演出的に)生徒に曝け出してもよかったんじゃないかな、と思ったり^^。ま、阿久津先生の姿に私を重ねて、私だったらそうするだろ、と入れ込みすぎたかもしれません。ドラマとして、キャラクターとして「生徒には毅然とした態度を取り続ける」という筋の通し方も一つの「解」なのかも、と思い返しました。そして最後の和美との絡みで出た「アロハ!」に思わず微笑んだ姿。一人だったからこそ、その笑顔が見せることができた。そしてこの姿を見せたくて最後まで引っ張ったんだと納得しました。・・・ある意味この笑顔は、今までの冷酷さをどこか許させる「免罪符」なのかもしれませんが。

改めて総括を。このドラマで描きたかった主題は、私が思うに「いま必要な教師とは」です。教師という言葉は広く、親から大人まで含まれますかね。そしてこのドラマでの教師の描き方はピラミッド構造になっていた。目に付きやすい上部には「現代をどう生きるか」についてなされる具体的な教育。そして普段あまり細かく見られない下部にはそんな教師を取り囲む学校環境。最初の数回はピラミッドの上の「厳しい教育」を際立たせて見せて批判をあおり、徐々に教頭の批判や教育委員会を登場させてその視点を上部から下部に向けさせる。そうすることで初めて教師という全体像を視聴者に見せつけた。私はこの作品の原作者が、単に「学習内容」とか「教育方針」だけで終わらせないもっと根本にある問題を見つめようとしていたという感想をもっています。そしてその姿勢にかなり共感を覚えました。

さて最終話。教師というピラミッドの「上」にも「下」にもそれぞれ心に残る金言がたくさんありました。以下、引用します。まずは「上」の部分について。

人生に不安があるのは当たり前です。大事なのは、そのせいで自身を失ったり根も葉もない噂に乗ったり人を傷つけたりしないことです。たとえば、人間が死んだらどうなるかなんて誰もわからない。言うとおりにすれば天国に行けるとか、逆らえば地獄に堕ちるとか言う人がいますが、あんなものはでたらめです。誰も行ったことがないのにどうやってわかるんですか?わからないものをわかったような顔して無理に納得する必要なんてないんです。それよりも今をもっと見つめなさい。イメージできる?私たちのまわりには、美しいものがいっぱい溢れているの。夜空には無数の星が輝いているし、すぐそばには小さな蝶が懸命に飛んでるかもしれない。街に出れば初めて耳にするような音楽が流れてたり、素敵な人に出会えるかもしれない。普段何気なく見ている景色の中にも時の移り変わりであっと驚くようなことがいっぱいあるんです。そういう大切なものをしっかり目を開いて見なさい。耳を澄まして聞きなさい。全身で、感じなさい。それが生きているということです。

教頭と他の先生:「先生、出てってください」「先生、もうやめてください」

今はまだ具体的な目標がないのなら、とにかく勉強しなさい。12歳の今しか出来ないことを一生懸命やりなさい。そして、中学へ行きなさい。

教頭と他の先生:「先生、いい加減にしてください!」「子供たちを混乱させないでください!」

ちょっと待ってください!・・・中学に行っても高校に行っても今しか出来ないことはいっぱいあるんです。それをちゃんとやらずに将来のことを気にするのはやめなさい。そんなことばっかりしているといつまでも何にも気づいたりしません。

はぁ、すごい。・・・稚拙な感想ですみません^^

そして次に「下」の学校環境部分について。阿久津先生が去った直後に内藤剛志演じる学年主任の並木先生が思わず口に出した言葉を引用します。

なんであんなすばらしい人を辞めさせなければならないんでしょうか?阿久津先生は自ら大きな壁になって自分を乗り越えろと言いたかったんですよ。壁にぶつかったことのない子どもは挫折に弱いし、いまは大人が壁になっていないから子どもがナメるんです。子どもは私のことなんかはすぐ忘れるけど、阿久津先生のことは一生忘れませんよ。本当に辞めなきゃいけないのは、私のような教師のほうじゃないんですか。せめて俺たち年寄りは阿久津先生みたいなやる気も理想もある人を守ってやらんといかんのではないでしょうか。大人がかっこよくないから子どもがグレるんです。

現場で成果を上げる先生、それを政治や行政の一方的な見方で排除することは、やはり不当であると。せめて現場である学校だけは先生を守る場所であるべきではと、逃げ腰だった先生からも本音の言葉が出ました。

改めて阿久津先生が担任であることで問題になるのは誰だったのか?被害者のはずの子供たちはむしろ阿久津先生と学ぶことを望んだ。思い返すと誰も実質的被害者はいないんですよね。被害者をあえて挙げれば「風評被害」による教育委員会と学校自身。各機関の関係者が被害を被ることになる。極論すれば、「生徒への悪影響」の大義名分を掲げて自分の組織の保身を図っただけなんじゃないのか。それはもはや教育の理論ではなくて政治の理論ですね。地方分権が進む世の中、裁量権が地方へ、そしてこと教育は各県・市町村教育委員会に分散されます。政治の理論はときに不合理となることを頭に入れておく必要があると思っています。

まとめます。教師はもちろん教育の明確な目的と科学的方法を身に着けている、そしてそれを支える土台としての学校やそのまわりの環境の整備が必要です。そしてこれらのベースとしてこれを信じることが必要なんだと思いました。

教育は奇跡を起こせるからです。
子供たちは成長していく中で私たちが想像している以上にすばらしい奇跡を起こします。

そして奢ることなく以下の言葉を胸に噛み締める必要があるのでしょうね。

わたしは自分がすばらしい教師だなんて一度も思ったことはありません。
どんな教師をすばらしいというのかさえ、まだわかりません。

「ソクラテスの問答」の精神を思い出しますな^^

自分も来年の教育実習でこういう思いを持って教壇に立てるのか。ドキドキですね^^

☆☆

おまけ。私は実はずっと「マヤ」と呼ばずに阿久津先生と書いてきました。教師として高い理想を持って行動する人への敬意を払いたいという意識からです。なんとなく、阿久津先生に対してかつて軽蔑していた人も敬意の方向へ向かっているように感じられて個人的には嬉しいですね(笑)

☆☆

最後に、このドラマで私が一番感じ入った金言を挙げさせていただきます。

自分の人生は自分で責任持ちなさい。

ニート、フリーターに限らず、自分の進むべき道が見えなかったり迷ってしまったときにぜひ思い返したい言葉にしたいです。

改めて最後に。この作品を通して思うところを記事にしてきましたが、稚拙な文章に対し温かいコメントおよびTBを頂きまことに感謝申し上げます。これからもどうぞ宜しくお願いします。

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (第6話)子どもが成長するとき
  7. (第7話)逃げ場としての「権利」
  8. (第8話)私立中受験と6年生の行事
  9. (第9話)ペアレントクラシー
  10. (第10話)「今を生きる」ための金言
  11. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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September 11, 2005

「今を生きる」ことへの金言(女王の教室10話より)

女王の教室10話より。今回はホームページに阿久津先生を告発する内容が書き込まれたということで教育委員会から来た視察員に「参観」されての授業でのお話。

良い教育風景になってきましたね。見ててほのぼのしちゃいました。特に由介の「アロハ~」の件にはどこか甘酸っぱさを覚えたり^^そして阿久津先生に対抗するために、「時間や食べ物、自分達のことは自分達でできるようにならないとね」という意識が芽生え、「みんな、もう少しでチャイム鳴るよ!」とみんなに注意を促して「自律」しようとする精神が行動となって表れてくる。大変いい方向に向かっていますな。

さて、その中で今回、最終的に教育委員会からはその厳しいやり方からついに教壇を終われることが決定的になってしまった阿久津先生。私と院で同じ講義を受けている現職の先生も、「教委の権力的かつ権威的締め付けがいろんなものを抑圧している」と苦境を訴えていらっしゃいましたが、実際の現場と政治・行政との抑圧的関係性は深く検討しなければならない問題の一つでしょうね。ただこれはまた長くなるので置いといて・・

今回は阿久津先生が今までの教育をどういう目的でやってきたか、ある意味このドラマの主題が明確になった回になったと思います。最終回は物語を閉めなきゃいけないためストーリーの展開がメインになるはずだから。今回は、これまで教育の現場で答えなければいけないのになかなか答えが見出せなかった「命」の問題への回答もあり、大変多くの金言がぎっしりと詰まっていると感じました。以下に、語られた言葉を文字にして引用します。願わくば天海祐希さん演じる阿久津先生の語る「言葉」をぜひ聞いて頂きたいと思います。文字で読むより何十倍もそこには「力」を感じることができるはずなので。

①なぜ勉強するのか

勉強はしなきゃいけないものじゃありません。したいと思うものです。・・・これからあなたたちは知らないものや理解できないものにたくさん出会います。美しいなとか楽しいなとか不思議だなと思うものにもたくさん出会います。そのとき、もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから人間なんです。好奇心や探究心のない人間は人間じゃありません。猿以下です。自分達の生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるというんですか。いくら勉強したって、生きている限りわからないことはいっぱいあります。世の中には何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが、あんなものは嘘っぱちです。いい大学に入ろうが、いい会社に入ろうが、いくつになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。勉強は、受験のためにするのではありません。立派な大人になるためにするんです。

②厳しい指導の裏には

イメージできる?私があなたたちにした以上にひどいことは世の中にいくらでもあるんです。人間が生きている限りいじめは永久に存在するの。なぜなら、人間は弱いものをいじめることに喜びを見出す動物だからです。悪い人間、強い人間に立ち向かう人間なんてドラマや漫画の中だけの話であって、現実にはほとんどいないの。大事なのは将来自分達がそういういじめにあったときに耐える力や解決する方法を身につけることなんです。この中には、もうその方法を知っている人がいるかもしれないわね、もしかして。(和美「どんなときも味方でいてくれる友達を見つけることですか?」)そういう考え方もあるわね。

③なぜ人を殺してはいけないのか

(前の学校で生徒に体罰を加え、再教育センターに行かされたことを尋ねられて)その子が私にこういったからよ。なぜ人を殺しちゃいけないんだって。その子は頭も良くて運動もできて体が大きかったからクラス中に恐れられていたの。事実その子のターゲットになった子は次々といじめられて自殺未遂をする子もいた。でもその子は反省もせずこう言ったの。なぜ人を殺してはいけないんですかって。そう質問すれば、大人はちゃんと答えられないって知っていたのね。だから私は彼に教えたの。他人の痛みを知れと。みんな自分と同じ生身の人間なんだと。どんな人にもあなたの知らないすばらしい人生があるんだと。一人ひとりが持つ家族や愛や夢や希望や思い出や友情を奪う権利は誰にもありません。残された遺族に憎しみや苦しみや痛みや悲しみを与える権利は誰にもありません。だから人を殺しちゃいけないんです。あなたたちも過ちを犯すかもしれないから肝に銘じておくことね。

犯罪を犯した人間は必ず捕まります。逃げることができても一生その呵責に苦しみます。周囲の人間からは見放されます。死ぬまで孤独です。もういいことは一つもありません。二度と幸せになんかなれません。

・・どれもしっかりと自身の教育方針の「核」をさらけ出した回答だと思います。和美が「この教室にいる全員、幸せになれると思います」と言った後の、「ずっと、その気持ちを持ち続けられるといいわね。」という言葉の裏に込められた優しさにほんと胸を打たれました。だからこそ、和美がした「先生は実はいい先生なんじゃないんですか?」という質問はナンセンスだったんでしょうね。良いも悪いもない、ただ信じる道を歩んでいるだけだと。だからこそ、「失礼なことを言うのはやめなさい」。

不器用なまでにプロフェッショナルなんだと思います。子どもにも「同業者」にもなかなか理解されえない。それどころか誤解されてしまうわけで。

さて次回は最終回。その先生の真意がどう皆に伝わるんでしょうか。本当に楽しみです^^

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (第6話)子どもが成長するとき
  7. (第7話)逃げ場としての「権利」
  8. (第8話)私立中受験と6年生の行事
  9. (第9話)ペアレントクラシー
  10. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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September 06, 2005

ペアレントクラシー(女王の教室9話より)

女王の教室9話より。今回は子どもと親の進学に対する葛藤から分かち合いに至るお話。

#3日4日と蓼科高原に旅行してきたため若干遅い執筆になりました。

だんだん阿久津先生の目指していると思われる教育目標に近づきつつあるように思えます。ラストの教室での授業参観はほのぼのしちゃいました^^三者面談のときの今までついたウソを全部バラす、などなど「脅し」にはちょっと??でしたけどね・・

今回は私立受験をテーマに親と子どもの考え方を扱ったものとして、かなり考えさせられる内容だったと思います。私の親もそうでしたが、私立に進学させたがる親はサラリーマンを含めた「ホワイトカラー」層が住む大都市近郊部は多いし、なかなかその雰囲気を感じさせるドラマはないので、現状を垣間見せるものとしてよかったと思います。

さて、親と子どもの考え方の乖離は恋愛と同様、どんな時代になっても解決しえない永遠の問題でしょうね^^ふと、私の院の先輩がゼミ発表で紹介したペアレントクラシー(Parentcracy)(引用:Brown,1980)という言葉を思い出しました。語感でわかるとおり、親parentと民主主義democracyを合体させたもので、子どもに関する進路の決定等の手綱は親が権利として握っており、親が決定主体であるとする考え方です。以下、阿久津先生の言葉より。

お母様の言うとおりにしなさい。あなたはまだ未成年なんだし。ご両親の反対を押し切って自分はやりたいことをやる気なら家を出て自立するか、ご両親を説得して理解してもらうしかないの。あなたは偉そうなことを言う資格なんかないのよ。

いいかげん目覚めなさい。あなた達の夢や希望を理解して、好きなようにやらせてくれる親なんてこの世にはいないんだから

阿久津先生の言葉は、字面だけを読めば「親に盲目的に従いなさい」と聞こえますが、ただ本当にいいたいことを「反語」のように言葉の中に秘めているのかなぁと思います。ここは「親に自分の考えをしっかり伝えて説得できるようにならなければならない」と。

私立中学の受験は、言われるがまま盲目的に受験したりとか、そんなに深く考えず安易に納得して受験したりすることが多いと自分の経験から振り返っても思います。大学合格実績と知名度で親に勧められてなんとなく納得して受験して…というのが実情ですかね。

思うのは、少子化の悪影響。つまり、親がその持てる教育資源を自分の子に多く継ぎ込むことができるようになって、そのためにペアレントクラシーの手綱をより握ることになりつつあり、その結果子どもへの溺愛が(「少年院参観記と女王の教室」)社会的未成熟を起こすのでは、という危惧です。「社会に適応させるための教育」という本来あるべき教育にとってはますます分が悪くなっている。もし言われるがまま大学まで進み卒業することがあれば、その後に続く社会との適応が出来なくなる可能性が高まるものと考えられます。外部との接触に自分のふがいなさや引け目を感じて引きこもったり、今までの学校や親に向けてルサンチマンを溜めてDVに走ったり・・・ちょっと短絡的に煽りすぎなので自重しますが、これらの「発ガン性物質」は過度のペアレントクラシーの中に潜んでいるものと思われます。

私が思う親と子どもの進路に関する決定スタイルとしては、親は人生の先輩として、生きていくのに必要な情報はちゃんと提示する。名の知れた大学に行けばそれだけ就ける職業の幅は広がること、より専門的な職業に就こうとするのであれば、ほんの一握りしかその道で生きていけないこと何になるにしても我慢や辛抱が必要であること、こういったことをちゃんと提示してから、親としてどう生きてもらいたいのかを伝える。それで考える時間を与えるのかな。小学生で子どもだからと言って親が何でも決めすぎると後々に影響が出てくる。だから個人の人格的発達を促す上でもベストなのではないかと思います。

#ちなみに院の教育学専攻の同期や先輩には、幼稚園・小学校などから長年私立に通っていた人が多いですね。教育学を専攻する動機として、どこか無意識(es)の部分に上記のような教育に対する親や社会への懐疑心(トラウマに近い?)があるんじゃないか、なんて分析をしています。私見として、学問をやろうとする人はその対象の分析を通じて自慰行為をしていると思っていて、極めて個人的なトラウマから脱けだそうとするのが自らの研究の深い動機になっているものと見ています。ちなみに自分もそんな感じ、なのかな^^

和美の「親から逃げちゃダメなんだ」「自分の人生は自分で責任を持ちたい」という発言。

もう大人じゃないですか(笑)いまや20代のいい大人でもこんなこと言えない人が増えているのに、ね。和美の成長を来週も楽しみにしています。

****

さて、ベテラン教師である天童先生のお父さんと関係のあるところがわかった阿久津先生。「天童先生がいることを知ってこの学校に来たのか?」という問いかけ。再教育センターといっても、以前書いたように要再教育教師ではなくて講師だったんじゃないか。ドキドキです。そして教育委員会からの視察員。来週繰り広げられる展開へ思わず期待感が込み上げてきます^^

来週も楽しみですね!

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (第6話)子どもが成長するとき
  7. (第7話)逃げ場としての「権利」
  8. (第8話)私立中受験と6年生の行事
  9. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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August 26, 2005

私立中受験と6年生の行事(女王の教室8話より)

旅していたためアップが遅くなりましたが、女王の教室8話より。今回は私立中学受験組と未受験組の「対立」と「和解」を6年生の行事と絡めて描いたお話。

東京近郊や大阪近郊の人にはものすごく実感のあると思われる私立中学受験。「ゆとり教育」や公立中学校の「荒廃」が報道され、ますます私立への進学率が高まるかと思いきや、まだまだ厳しい企業の経営状態等の影響を受けて私立へ進学することを押しとどめる家庭も増え、進学率は停滞しているそうです。しかし、全体としてはそうでも東京都内の小学校はクラスの3割~4割(この番組はわかりやすく半々ですが)が私立中学の受験を希望しているようです。そのなかで、6年生といえば修学旅行や卒業制作など定番の行事があります。私もこれらの行事をこなして卒業したのを思い出しますが、どれもいま思えば学校で決められているからやりましょう、という形で半ば強制的にやらされた記憶がありますね。かくいう私も私立中学を受けるだけ受けた人間なので、このクラスの私立受験組の「面倒くさい」という気持ちはよくわかる気がします。

今回のポイントはそんな私立受験組をはっきり画面に打ち出して、6年生のこれらのイベントをこれまで子どもが何も考えないまま学校側が強制的に実施させ、あまりそれに意味を見出すような指導を行っていなかったということへ、時速160キロ超の一石を投じたことです。

これらの行事を、ただの「何かをつくりました」で終わらせるだけではもったいないでしょ。目的を持って、計画をたてて、グループで行動して・・と隠れたカリキュラム(hidden curriculum)が展開される必要があると思っています。

この意味で和美は対阿久津先生という意識は根底にあるもののクラス全体で協力して作り上げる思い出をつくろうという、より実感のこもった具体的目的をクラスの中に浸透させ、これら6年のイベントの動機付けをしたことで、活動の裏に潜む隠れたカリキュラムを自ら習得していったと言えるでしょう。

#馬場ちゃんの案を採用したのも「自分人でだけで進めてるんじゃないよ」というアピールにつながっていてよかったんじゃないかな^^

私立受験組みも自分だけ勉強ができればよいというような気持ちを、そして未受験組もただねたましいという気持ちを止揚(アウフヘーベン)できて分かり合えたことが今回の狙いでしょうね。もちろん阿久津先生の狙いであるわけですが。

子どもたちは子どもたちの中で成長するんですね。でもさらにその根底には阿久津先生という大きな「お釈迦様」がいて、子どもは全員その手のひらの上に乗っかっているんだ、と実感した次第です。

今回は以上で。

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (第6話)子どもが成長するとき
  7. (第7話)逃げ場としての「権利」
  8. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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August 14, 2005

逃げ場としての「権利」(女王の教室7話より)

#しばらく政治談議を繰り広げましたが、今回はこのブログの本来のテーマである教育談義を書かせて頂きます。といっても政治と教育は密接に絡んでいるのでそこにはきっと連続性があるのでは・・と思いつつ。

「女王の教室」7話より。今回は財布を盗んだ犯人が判明し、その子が再びクラスに受け入れられるにいたるお話。

だんだんと最終話に向けてドラマらしく、前半で繰り広げられた確執や謎がだんだんと解決されてきました。財布を盗んだ真犯人がエリカだとわかるが、それを許す和美、そしてクラスで団結が生まれて・・という私の展開の読みは当たっていましたね^^。最後、そんなエリカと仲良く登校する姿にはちょっとジーンときました。これまでのように「阿久津先生のこの言動や行動は教育的にどうなのかなぁ?」と思わず腕を組んで悶々と考えさせられたりするようなことも少なくなって、視聴者的にも安心して見られるような「よい」方向に進んできましたね。

さて。いつものとおりネタばれですが、主なあらすじは以下の通り。

財布盗難事件の犯人がエリカだとわかり、また彼女は阿久津先生のスパイをしていたこともわかってしまう。このため今度は彼女がクラスから無視される。そして不満を和美にぶつけ、クラスから飛び出すエリカ。それをほっておけず探す和美と由介たち。「もう知らないから」と関わるのを避ける友人を「和美はあんなひどいことされてもエリカのこと心配してるんだぞ」と由介が説得する。一方、精神的に追い込まれた彼女は夜、自分のクラスで灯油を撒く。それを取り囲む和美たち。友人もクラスの周りに駆けつける。そしてライターの火をちらつかせ、落とそうとするエリカ。「あんたたちもマヤの言いなりだったじゃない!」そこにあらわれる阿久津先生。(というか誰よりも先に学校に駆けつけていて満を持して登場)その勢いに押されてかライターの火も消え、今度はカッターを突きつける。「全部あんたが悪いのよ!」そしてエリカの握るカッターの刃ごと手で握り、押さえ込む阿久津先生。すぐハンカチを取り出し自分のしケガをした手で握る。そしてエリカと生徒に語りかける・・

今回はこの最後の阿久津先生の言葉を取り上げます。まさにこの言葉はいまの子どもに欠けているものを端的にあらわしているのではないでしょうか。私もまさに同感です。

「普段は、個人の自由だとか偉そうに権利を主張をするくせに、いざとなったら人権侵害だと大人に守ってもらおうとして・・。要するにいつまでたっても子どもでいたいだけなのよ」

「悔しかったら自分の人生ぐらい自分で責任持ちなさい」

「人権」や「プライバシー」。こういう言葉だけ一人歩きして子どもが権利を主張し自己防衛する。そして上にあるとおり自分の責任になりそうになったら途端に言い訳をして逃げ出す。いまの子どもって(私の同年代も、そして私もそうかもしれませんが)自分に責任があることを認めたがらない人が多いですね。「自分さえよければいい」という親の考え方が引き継がれてしまっているのがその背景なのか。ふと、エヴァンゲリオンの碇シンジを思い出しました。劇画の中のこととはいえ、彼も世の中の出来事に何の感動ももてないでいる「おかしな」自分を「全部父さんのせいだ」と父のせいにしてましたね。自分も含めて、これが現代のワカモノの特徴かもしれません。

でも社会に出て自分で仕事するようになると気づくんです。どんな言い訳も通用しないんだって。そこはそんな生易しい世界じゃないんだって。小学生という人生のまだまだ初めにこのような阿久津先生の言葉を自らの経験の中で噛み締めて生きていくことが絶対に必要なんだと思いました。

そしてこの「事件」の翌朝、エリカの母の言葉より。

「行きたくないなら行かなくてもいいのよ」「欲しいものみんな買ってあげる」

気づかないだろうけど、これはもう「溺愛」と呼んでもいいのかもしれません。少年院関連の記事で書きましたが、世の母は良かれと思ってやっているのでしょうが、それこそ教育にとって科学的に悪いものです。それは社会と対応できる力が育たなくなるから。「親業」っていうのも少子化が進む社会で子どものときから教える必要があると考えています。

・・それにしても昨今の世相を鑑みるに、「人権」って言葉をあまりにいろいろな場所に持ち出しすぎているんじゃないかと思っています。ヘタに子どもが「人権」なんて言葉を口に出せばそれから親や大人は何も手が出せなくなる。極論すれば、子どもは『動物』と同じでしょう?社会規範を教えてやっと「人間」になれる。それなのに「人権」という言葉がすぐに事件性を持った報道を連想させ大人は教育的指導を躊躇してしまう。「人権」という言葉の壁が必要な教育をそれこそ突っぱねてしまっている気がします。もちろん、子どもに何をしてもいいと言っているわけではありません。それこそ「身体の安全」は絶対に犯してはならない。それを守った上で、ときに社会規範を持った人間に育てるにはプライバシーにも踏み込んで注意しなければならない場合もある。子どものときに教育を躊躇したら誰が子どもを育てるのか。成長すれば成長するだけだんだんと誰も注意もできなくなっていきます。

ただ「人権」という言葉を妄信してはならない。特に教育に携わる人は。そう私は考えています。

ちなみに今回、生徒であるエリカは教室に火をつけようとしていました。またカッターで教師を刺そうとしていました。両方とも某『金八先生』とちがってどこか胡散臭くなく、今の子ならやりかねない現実をよくドラマの演技で表現できていたと思います。追い詰められたら理性なんてぶっとんじゃいますからね、とくに今の子は。これは自分の回顧でもあります。しかし阿久津先生の毅然とした態度は偉大さを感じたなぁ・・

***

さてそんなすごい阿久津先生。不適格教師が行く「再教育センター」の話が途中で挿入されたときから何か引っかかると思っていましたが、まさかこの阿久津先生が不明の2年間「再教育センター」にいたとは。そこでの経験があのような「強権的」指導のベースになっているのかも・・といっても別の選択肢も考えられて、それは阿久津先生自身が不適格教師としてではなく、そういう教師を指導する教官として行っていたのでは?ともとれます。でもあの肩から胸にかけての大きな傷。あれこそ何らかの事件があり、再教育センターと関係しているものだと解するのは言うまでもない。これを見ると後者の教官の立場としてではなく、やはり前者の通り生徒を統制できずに生徒に負傷させられた弱い不適格教師だった、ということかもしれません。ああ、どっちだろう・・?

それにしても最後、予告編の「これがほんとの私なの☆」という言葉とともに髪を下ろした白くさわやかな衣装を着た阿久津先生は何者だろう?

なにやら話が急展開してますぞ・・^^?来週も楽しみですね。

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (第6話)子どもが成長するとき
  7. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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August 07, 2005

子どもが成長するとき(女王の教室6話より)

女王の教室第6話より。今回は完全夏休み登校での出来事のお話。

夏休みを今までどおり普通に登校し、授業を行うことにした阿久津先生のクラス。主人公の和美と友人・由介は先生に反対するも他の子どもはみな賛成、そして成績の良し悪しでポイントを足したり引いたりして、必要なポイントが貯まったら卒業証書を授与し二学期から来なくていい、ということになった。

東京近郊、とくに都内の小学校は私立中学校の受験で3学期の出席が極端に減るらしいですね。特に公立離れが進んでいる背景もあり、実質夏休みの授業はその代わりも意図しているのかな、とも思えます。学校教育法上でこのような措置が認められるかは確認してみないとわからないですが、事前に学校長(すなわち校長)とネゴをとってその許可をもらえればOKかもしれませんね。ただ、今回はこうした背景もさることながら、あくまで生徒の反骨心の奮起を期待するための夏休み完全登校、ということでしょうね。

阿久津先生に言われるまま授業をこなす子どもたち。

和美はクラス全体が仲良くなるチャンス、ということで全員に一人ずつ文面を替えて手紙を書いて知ろうとする。まずは同じ班の成績優秀だけどクールな進藤ひかる(綾波レイみたいな子)。手紙を渡すもなかなか受け取ってもらえず、どうにか受け取ってもらうもトラウマゆえ内容をなかなか手紙を開けない。同様にクラスでは一人が手紙を破り捨てるとそれに続いてみんな破り捨てようとする。そんなクラスに由介がかみついて喧嘩。この中で和美が止めようとするも勢いあまってぶつかり窓を突き破ってけがをしてしまい足にガラスが刺さって怪我をしてしまう。それを阿久津先生が非常に手馴れた手つきで応急処置。クラスでは由介が「いい加減に目覚めろよ、和美の気持ちわかってやれよ」 この言葉に動かされるクラス。そしてその後阿久津先生が由介たちに「ガラスがまだ片付けられてないじゃない、早く片付けなさい。その他の人は音楽室に移動しましょう」という言葉に次々に挙がる「私も雑用手伝います」という声。そして「・・個人面談で話し合う必要があるようね」と阿久津先生。

すべて「想定の範囲内」「シナリオ通り」という言葉が当てはまるような、そんな展開になってきたように思えます。

手紙を破った一人の行為があっという間にクラス全員そうしてしまう動きにつながってしまう。子どもはえてして一人の力ある人に触れるとただそれを盲目的に追随してしまうことが多い。ま、大人もそうですな。早いうちから練習しておかないと将来的にもそれをこれまた盲目的に行ってしまう可能性が格段に高まる。そんな動きに対し由介が「目覚めろよ」と警鐘を鳴らす。そしてこの言葉通りに阿久津先生に意志をもって自分の意見を表していく生徒たち。これこそまさに、前回阿久津先生が言っていた

「子どもは子どもの中で成長する」

というのがとても身に染みるなぁという感じ。和美の流した、それこそ本物の「血」がそれを促したように思えます。

財布盗んだ生徒(=エリカ)もとっくにわかってたしね。和美のこれまで辛かった経験がそろそろいい方向に実を結んでいっているようです。

きっと来週は盗難事件の解決と和美を中心としたクラスの団結があくまで阿久津先生の「想定どおり」に進んでいくものと予測しています。

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (第5話)いじめにどう打ち勝つか
  6. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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July 31, 2005

いじめにどう打ち勝つか(女王の教室5話より)

女王の教室5話より。今回は前回の財布盗難事件で犯人にされた主人公・和美がいじめに遭うお話。

昨日まで友達だった人間にいじめられてしまう。教科書に落書きされたり、机に落書きされたり、プールで沈められたり。それでもすべて自分に溜め込んでなかなか家族に相談できない和美。一方、和美と一緒に代表委員をやっていた由介(ゆうすけ)は不登校に。しかしそんな彼のもとに阿久津先生が現れ、卒業証書を手渡す。この話をたまたま行った動物園で遭遇した阿久津先生本人から聞き、由介の実家であるスナックに行き、真相を確認する和美。その中でいらついた和美は「私は一人で大丈夫だから」と由介の宝物をそうとは知らず川に投げ捨てる。翌日、教室に入るなり上から水が落ちてきてずぶぬれになってしまい・・ついに泣いて逃げ出すも、先生は彼女に「逃げ出すの?」と諭される。街中で由介のおばあちゃんに遭い、川に捨てたのが自分を置いていった母からもらった宝物であることを知り、土手で汚れながらも探し出す。そこから和美も由介も立ち向かう勇気を持ち、翌日自らがいじめられている学校の教に「元気よく」登校していく・・

ついに5話、半分まで来て伝統的学校病理である「いじめ」が取り上げられました。私が小学生の頃だから15年くらい前にも、昨日まで友達だったのにあくる日からいじめられる、なんてことがありましたね。それも今思うと非常にささいな理由で。その現実が変にデフォルメされず出ていました。「いじめ」は前回の盗難事件と同様に抜本的な対応策がなく、常に教師を悩ませる問題でしょう。さらにこれがもとになって「不登校」やその後の人生のトラウマへとつながっていくこともありますし。前回と同様、取り上げられるべくして取り上げられたテーマだったと思います。

まず感想。和美は優しすぎるくらい優しいゆえに、本当にいろいろ溜め込んでしまう子ですね。だからあんな辛い思いをしてしまうわけだ。ぶっちゃけて、水をかけられて泣きながら街中を歩いているシーンで、こりゃ辛いなぁと私ももらい泣きでした。うーん、かわいそうやったなぁ・・。

さてその様子を原沙知絵演じる別の担任が目にし、クラスに「誰がやったの!?」と言い放つも、無反応。すぐに事実を職員室にて報告した際の、阿久津先生の言葉より。

「いじめをやめなさい」と言ってやめますか?子どもが。逆に教師が「いじめをやめろ」と言うと、その子はますますいじめられますよ。

大事なのは、いじめに立ち向かう精神力をつけることです。いじめに対処する知恵をもつことです。

泣いて帰ろうとする和美は目の前の阿久津先生にホンネをぶちまける。そんな和美へもう一つ、先生の言葉より。

「悔しかったら自分の力で何とかするのね。誰にも頼らず自分だけの力で」

あくまで、自分で解決しなさいとする姿勢を崩さない。

さて、この「いじめ」の問題の原因は何か。

やる側からの言い分で多いのは、まず主犯は「あいつ、気に食わないから」を発端として「いじめてみたら反応が面白かった、楽しかったから」。それに追随して周囲も「自分もやらないといじめられたりシカトされたりするから」。構造として主犯は数人、あとは極めて無言・有言問わず「風評被害」であることが多いようです。しかも、元・友人だった子がいじめの主犯になることが多い。また主犯がクラスの中心人物だと「風評被害」も拡大するという構図があらわれてきます。

最近、「気に食わない」ことが増えているのかなぁと考えます。それはいろいろな場面、例えば塾の成績や相手の持ち物(ケータイとかね)など、とかく比較するものが増えてきているから。あと「○○ちゃんはこうだから頑張りなさい」とかそれを助長する保護者の影響も昔からあるわけで。子どもの家庭環境、所得階層はすべて異なるわけですし、この感情の発生はどうにも止めようがない。これはまず前提として押さえておくべきでしょうね。

また子どもは自分と違うことをする人間、自分が不快に思う人間を受け入れるだけの心の用意ができていません。それはただ精神が未成熟であり発展途上であるからです。要は自分のまわりにある「異文化」を受け入れられないわけです。(もちろん人によって程度の差はありますけどね) だから自分がよく気が合う子とは簡単に友達になるし、嫌いと思えば容易にいじめる側にもまわる。だから「いじめ」というのは起こるべくして起こる問題だと思っています。成長の中で、多少の「いじめ」を経験し、「やってはならないもの」という認識を持って大人になる。世の中の大人でいじめを容認する人がまずいないのは、ちゃんと心とその中の「社会規範」が成長しているからです。

阿久津先生の言うとおり、「いじめ」は教師が問い詰めて犯人を絞り上げればなくなるとは思えません。見えないところで「陰湿」ないじめを受けるかもしれない。例はあまり挙げたくないですが、いじめられている子の携帯にhotmailなどわざと不特定のフリーアドレスから何通も中傷メールを送りつけた事例もあるとか。とくにインターネットなど情報ツールの普及は、容易にこれらの「裏情報」を取り出して使う機会を与えている。探せば出てきますもんね。だから教師がいじめる側を追及しても根本的解決にはならないと思っています。

では、どうすればよいか。

阿久津先生の指導はたしかにその有効な方法の一つだと思います。自分が克服する方法を見つけようとする意志が無い限り、権力のある他人が手を下しても効果がないことはたしか。ドラマの和美は由介という強力なパートナーを自ら仲間に付け、きっと来週の由介は和美をしっかりとクラスのいじめから守っていくでしょう。そして彼はこれまでもクラスの中のひょうきん者として影響力を持っていた。ここから「いじめてはダメだ」という意識がクラスに芽生え、和美は由介の力を借りて「自分の力でなんとかする」という目標を達成していく。そんな展開を予想しています。(というかそうであってほしい^^) 和美の溜め込んでしまう「反応が面白い」なら、由介を通して「面白くない反応」を返せばいい。たしかにそうです。

でもここで苦言を。「いじめ」というのは個人の力でどうこうできるものだけではないでしょう。そこには部落のような社会的背景があったり、両親が所得的に最下層であったりするような根の深い場合、個人の力でどうにかできるものではない。それに個人で打ち勝てる子どももいれば精神的にあまりに弱い子どもも当然いる。そんな子どもにこれを強いるのははっきり言ってムリです。

私が思うに、このいじめへの対応方法は、「これまで友達だったのに突然いじめられた場合」であり、あくまで「和美」がどう対応していくべきかを強く意識して語っているのではないかということです。あれをすべてにおいて適用しようと考えると土台無理があるわけで。まぁちょっと考えると、阿久津先生は自分に抵抗する和美じゃなかったらそもそも財布盗んだ人に然るべき罰を与え、その後のケアもしっかりするのではと考えられるわけですけど。何回も言ってしまいますが、ただの悪魔教師では無い気がします。厳しいことを言いはしますが、その中に個別で教育している部分が見て取れるような、そんな気がします。由介への卒業証書もそう・・かな?

なお「いじめ」の問題に戻りますが、最近気がかりなのは特にお母様方。子どもは年齢的に生きてきた年数が少ないから未熟なのはしょがないですが、お母様方も同様に「異文化」を受け入れる心のトレーニングが不完全で大変器量が狭くなっているように思えます。たとえばこのわがままに困った 保護者の無理難題という記事。この「わがまま」の原因は「自分さえよければいい」というのが根底にありますが(あと教師が低くみられていることも指摘できますが)、私が思うにこの裏には異文化を受け入れる心の未成熟さがあるように思えます。その保護者のもとで育つ子どもは本来伸びるはずの心の器量の伸びしろを狭くしてしまうように思えてなりません。

最近は職場でもひどい「いじめ」が見受けられるそうですが、今まで社会規範を持っていると思われていた大人も成長しきってないのかもしれない。もっとも会社の場合、早期退職への無言の圧力など子どものいじめとは原因が異なる面も多いでしょうが・・

最後、和美の「もう逃げませんから」という言葉に対する阿久津先生の顔を必死に読み解こうとする自分がいました。どことなく、この二人に向けて「微笑ましい」笑みを浮かべていたように思えるのですが、はたして・・?

今回はほんっとに長く書いちゃいました。次週もまたきっと書きます。

<過去の記事へのリンク>

  1. (第1話)土曜21時と女王の教室
  2. (第2話)親なんて所詮
  3. (第3話)能力差別を教えるべきか
  4. (第4話)盗難事件はどう解決すべきか
  5. (番外編)少年院参観記と女王の教室

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July 30, 2005

少年院参観記と女王の教室

授業の一環として訪問した少年院。その参観記をレポートとして提出しなければならず、締切日である今日、やっと完成しました。正午が締切で10時過ぎにレポートを添付して教授宛てにメール送信、これで完了です。

さてレポートをまとめるとなると当然何らかの文献を読んで参考にしたり引用したりするわけですが、この中に『「女王の教室』の阿久津先生の教育理念(と思われるもの)につながる内容があったので、要約および文体を変えてブログにアップします。

なおこの文章はもともと「少年院に収容された少年」がなぜ「非行」に走ったのか、その背景を探る名目で書かれた文章であり、引用文献も同様に「非行」に対しての意見や理論となります。しかし「非行」というのは過度の「反社会的行為」だと私は考えます。以下、「非行」という言葉を、程度の差はあれど現代の生徒・児童による「反社会的行為」と読み替えていただきたく存じます。

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少年院に収容される少年は、これまでは塁非行性(再犯性)を強く有する少年が多いようです。これらの少年は、その家庭環境が片親や肉親以外で養育されたケースが多く、また所得的に下位の階層であることも多いです。しかし最近では、普通の両親が揃っている経済的にも安定した家庭の子どもが重大事件を起こし一回で少年院送致となるケースが増えています。

この原因として指摘されるのは、現在の「普通」とされる家族が子どもの教育に関して「家族病理」というべき問題を抱えていることです。文献によれば「非行少年の4分の3は両親健在の普通家族であったし、また犯罪白書によれば、非行少年の86%が経済的に安定した家庭の子どもだった」(山口透『少年非行学』東信堂 1984)とのことだそうです。この中で具体的原因として考えられるのが、「虐待」と、親の「溺愛」「過剰期待」です。(瀬戸則夫「非行と家族」近畿弁護士会連合会 少年問題対策委員会『非行少年の処遇』1999) ここではどの家庭にも起こりうる後者について述べます。

「溺愛」と「過剰期待」

親が子どもを溺愛したり、もしくは過剰に期待をかけたりすることによってその反動で子どもが非行を行ってしまうという分析が専門家からなされています。これらの根本には時代的・社会的変化による家族の変質(直系家族から核家族への移行)が挙げられます。核家族への移行により「家族員の相互理解が乏しくなり、対立や葛藤」が生み出され、さらに「価値の多様化が一般化して家族の統合が弱化してくると様々な病理現象が派生してくる」(山口、1999)中から現れてきた問題とされます。また少子化の進行で、子どもにより教育資源を投入しやすくなったためにこれらの現象がいっそう起こりやすくなっていることも指摘されます。

この「溺愛」と「過剰期待」ですが、それぞれを解説すると、前者は親が何不自由なく子どもの身の回りの世話を行ってしまうことで、子どもはまったく悩みを抱えることなく家の中では王様となるが、外ではそれが通用せず孤立し、社会と適応しにくくなっていく現象です。また後者は親から過剰に期待をかけられることで常に緊張状態となり、それから逃れるためにわざと病気になる、あるいは集団を作って非行に走るようになる現象です。核家族化、少子化と現代のキーワードが並ぶ中で、現代の家庭にとってこの両者はきわめて起こりやすい現象だということができるでしょう。

「処方箋」

これらの症状に対する処方箋の一つとして生島浩氏の『悩みを抱えられない少年たち』(日本評論社、1999年)を取り上げると、彼はこの中で普通の家庭の親への「悩みを抱えさせるための援助、理不尽のすすめ」を提唱しています。この要点を取り上げると、以下のようになります。

「子どもは、完全に欲求が充足されてしまっては、どうにもならないといった矛盾を抱え込む体験を重ねることがなく、思い通りにならない怨みつらみをキレることなく心のうちに思いとどめる術を身につけることが出来ない。」だからこそ、「(自分の思うようにならないことを)身をもって体験することが不可欠である」と考え、「(少子化が)進展し、無い物ねだりをしても仕方がない社会状況の中で、このような葛藤状況を経験させるためには、親や教師など周りの大人も、子どもの欲求に細やかに即応するばかりではなく、意識的にほどほどの理不尽な存在でなければならない。」 

一言でまとめるならば、親や教師は子どもを突き放す覚悟を持て、と諭しています。

少年による非行・反社会的な行動の原因を再度考えると、少年本人の自己責任もさることながら、きわめて養育された環境、とくに親との教育的関係によるところが多いと言えるでしょう。学術的になりますが、人間の行動を分析して導き出された「レヴィンの法則」というものがあります。式として“B=f(P,E)”と表しますが、「B」はBehavior(行動)、「P」はPersonal(性格)、「E」はEnviroment(環境)で、「f」はfunction、すなわち関数であることを示しています。つまり、「行動は性格と環境の関数である」ことを表す法則です。この法則で言えば、少年の行動は「P」と「E」によって規定されますが、「P」は「E」の影響を受けて形成されるため、とくに教育については「P」より「E」を注視する必要があると言えます。

以上から、社会を規範を持ってしっかり生き抜く人間に育てるには「節度ある突き放し」が行われなければなりません。ここで阿久津先生を思います。彼女の教育理念にあるのはおそらくこれなのではないでしょうか。親や大人の尺度で子どもの教育にとって「良い」と思われているものが、実は逆に子どもの教育にとって「悪い」ものになっている。だからこそこれを排して厳しい指導を行っているのではないか。もちろん彼女の指導をすべて肯定的にとらえることは出来ませんが、実際に行っている指導はおそらく上記のような理論を背景にして行われているものだと推測できます。教師という職業が教育に関する研究および成果を実際の現場に適用して教育を行う職業だととらえれば、間違いなく彼女こそ教育者として「プロフェッショナル」であると考えます。

某介護施設のCMで「頑張り過ぎない勇気」というキャッチコピーがあります。あれはきっと教育にもあてはまるでしょう。わが子がかわいいと思うなら、千尋の谷から突き落とす「虎」になる必要があります。みずから「虎」になり、「非行」という「竜」に立ち向かっていかなければならない。

・・と、最後「虎」や「竜」と猛獣まで出てしまいましたが(笑)、それだけ教育というのは手ごわい相手であるんだと常日頃から思っております。あとは教育が、政治や権力という「魔物」(かつてリヴァイアサンと喩えた思想家もいますが^^)に足をすくわれないようにせんとね。

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July 23, 2005

盗難事件はどう解決すべきか(女王の教室4話より)

女王の教室第4話より。今回は生徒のお財布がなくなってしまう盗難事件のお話。

主役の女の子(=和美)が、実際に盗んだ子(=エリカ)が財布を捨てようとする姿を偶然目撃してしまう。でもエリカは居残りで掃除をしている和美に、自分の代わりに財布を返してあげて、と言う。そしてその優しさゆえに引き受けてしまう和美。そして誰も居なくなった教室でカバンに財布を入れて返そうとするも、それを目撃されてしまう。そして当然あらぬ疑いをかけられてしまい・・。

学校での「盗難」。これは必ず起こって犯人がわからないことが多いんですよね。だからといって犯人が誰かを徹底的に調べ上げることは人権とか倫理とか「教育上」よくないことと考えられていることが多い。でも抜本的な対応方法がないのが現状でしょう。教育関連を扱うドラマとして、取り上げられるべくして取り上げられたテーマだったと思います。

さて、これにどう対応するか悩む教員たち。私ももし教員になったらどうやって対処するかなぁ。。回答がなかなか見つかりません。内藤剛演じる先生は「生徒に目を瞑って手を上げさせたんですけど」と述べ、「でも実際薄目を開けて誰だかわかってその子はいじめられたんですよね・・」と体験を話す。この「目を瞑って手を上げる」って誰もが必ずやられたことありますよね?私も薄目開けてましたよ。そりゃあ誰か挙げてないかかなり気になりますもん。

ここでの問題は、本来であれば盗んだ人と先生しか知らないのに絶対他の人にバレてて、それなのに教師は「そんなことはない」と言って目を向けようとしないことが往々にしてあること。まあ、あるいは盗んだ生徒もここで手を挙げたらバレるとわかっていて絶対手を挙げないのがいまや普通でしょうけどね。ともかく良い方法ではないことだけはたしかです。

原沙知恵演じる先生が「生徒の自主性に任せて・・」との(非常に生温い)意見に対しての阿久津先生の言葉より。

「徹底的に犯人を捜します」 「このままうやむやになったら犯人はドンドンつけあがって、同じような罪を犯すのに決まっています」 「自主性とか自由とか言って、子どもは自由と非常識を混同するようになるだけです。悪いのが何なのかわからない人間になるだけです」

そして「見つかるまで連帯責任で全員帰しません」と断固とした対応をとる。「犯人を必ず見つけ悪い芽を早めに摘み取る」という方法。そこで一斉に起こる非難の声と湧き起こる「誰が怪しい」という意見や叫び声。生徒同士が他人を信用しない状況が一気に生まれる。

なぜ阿久津先生はこういう対応をとったのか。やはり、悪いことはすぐにバレてみんなに迷惑がかかることを教えたかったのだと思います。要は、責任を個人でクローズするのではなくクラス全体にまで広げることで、一見理不尽に見えても個人的な犯罪が自他ともに迷惑をかけることを感覚的に理解させる。これを念頭に置いてるんじゃないかと考えます。ここまで騒がしいことになったらもうこのクラスでは二度目は起こらないでしょう。

生徒が誰だか特定された場合、たしかに「目を瞑る」方式より盗んだ生徒のダメージは大きいでしょうね。でも大きな目で見れば教師が見て見ぬふりをするよりいいのでは。将来盗難をするよりはるかにマシだとも言えます。ただうまくケアしないといけないでしょうが。

今は先生が和美を糾弾してたしかに表面的には酷いなぁとは思いますが、過去の放送で個人の行動をしっかり押さえている先生が、実際に盗んだ子の行動を押さえていないはずはありません。クラス中が騒ぎ立てているとき、阿久津先生が黙って見ているカットが入っていたのがすごく気になりました。実はわざと騒がせているのでは?今後、和美の前で実際に盗んだ子を謝らせ、でもそれを和美が許し、またみんなも和美に謝って和解するシーンが来ると予想しています。こうすることで盗みはいけないことをわからせた上で、かつクラスの団結が強まる方向へ持っていく、いわば「win-win」をやろうとしているのでは。

今回のラストのシーン、雨が降って傘も差さずどしゃぶりの中、いかにも辛い状況を演出していましたが、きっと「雨降って地固まる」ようになるんじゃないか。私にはどうしてもあの先生がただの悪魔教師だとは思えません。きわめて綿密な「荒療治」を組んでる、そう思えてならんのです。

ほんっとにいろいろ考えさせられる・・   

今回はこの辺で。また次週も書くことになると思います。

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July 17, 2005

能力差別を教えるべきか(女王の教室3話より)

『女王の教室』第3話より。今回はクラスで創作ダンスをすることになり、クラスで練習することに。しかし、担任の阿久津先生はダンスが下手で足を引っ張っていた女の子・馬場さん(書いてて複雑・・^^)に「あなたは学校に来なくていいわ。風邪を引いたことにして学校を休みなさい」という問題発言をします。・・ここは特に激しく賛否が巻き起こるでしょうね。

#「見本を見せてください」という生徒に応えるべく阿久津先生(=天海祐希)の踊ったダンスのなんとうまいことか。さすが^^。

その後、主人公の和美がこの馬場さんと友達になり、二人でダンスの特訓。この時点では、先生がクラスの誰かが彼女と練習してそれを通して友達ができることを想定してやったんじゃないかと思ったんですが、それでもその努力を否定するかのごとく結局「来るな」と言われ、生徒がダンスをボイコットしようという話に。しかし先生はそれを見抜いていて、先週「仲良くなった」親御さんに先回りし「生徒のダンスが素晴らしいからぜひ見てやって欲しい」とボイコットさせないように手を打つ。結果、クラスの大半が裏切り、孤立する和美たち。

たしかに社会的に、一度決まったイベントや行事は内部で何が起こってもやり遂げなければならない。下手に妥協することは逆に問題です。これは、たしかにそうです。でも・・。だんだん阿久津先生の真意が見えなくなってきたような気がします。というかまだ3回目だからそんな真意なんて簡単につかめるもんじゃないんでしょうけど。

いずれにしろ、また今回も学校公教育への鋭いくさびが打ち込まれたことには違いありません。能力で人は差別される現状を果たして教育(しかも小学校)で教えるべきなのか。下手に「平等」なんていう「ことばの安住の地」に逃げこまない方がいいのか。

今後とも目が離せません。早く、阿久津先生の「真意」と描いている「大きな絵」を知りたい。

・・

話題を変えまして。

いやぁ、日テレ土曜21時の『女王の教室』について過去に数回記事を書きましたが、あらゆる方から様々なコメントやTBをいただきました。なかには小生の記事を引用してくださるブログもあったりと私としてはうれしい限りですが^^、このドラマがもたらす影響の大きさ、反響のすごさに圧倒されています。製作者側の意図がしおちゃんマン先生のザ・教室blogに書かれていましたので、ぜひリンク先に飛んでみていただきたいのですが、一部引用させていただくと、「天海さんの起用は彼女が厳しい大人を演じて世の中の不合理とかを説教くさくなく斬ったら爽快であること」。そして「子供たちが世の中の厳しさをどこで学んだらいいかを考えても怖い大人が絶対必要」であり、「先生と闘って成長する子供たちが大人たちを変えていく。『大人たち、しっかり!』という提言も行っていきたい」ということだそうです。

いまのところ、この意図の中の「先生と闘って成長する子供たちが大人たちを変えていく」という部分が始まって間もないためまだ見えてきてはいませんが、最後の『大人たち、しっかり!』という提言をしたい、という部分はしっかりとその意図が伝わっているようです。

この反響の多さ、激しさ。これは多くの人が、いや誰もが現在の教育の行く末を案じていることの証明になっていますね。私が言うのもなんですが、まだまだ日本の教育は死んでいない、そしてこれからも死なないと思います。

自分も教育学(教育社会学・教育政治学)を専攻する院生として、しっかり勉強に励まねば。

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July 14, 2005

親なんて所詮 (女王の教室2話より)

『女王の教室』第2話より。天海祐希演じる「鬼教師」をどうにか懲らしめてやろうと、子どもたちが親に鬼教師の「悪行」をチクッてその翌朝、抗議に来た母親たち。しかし親は先生と個別に会話すると逆に「実にいい先生だ」と満足させられてしまう。学校から満足げに帰る親たちを屋上から見る子どもたち。その子どもたちに向けて先生が言ったことば。

親なんて所詮、成績が上がってくれればいいの。面倒をおこさなければいいの。担任が自分のことを気にかけてくれるってわかればいいの。要するに自分さえよければいいの。

分かったらあなたたちも余計なことを考えずに、親の期待にこたえてあげることね。

「親の学校への期待感」とはどんなものか、その内実を鋭くど真ん中に射抜いてると思います。とくに「自分(の子ども)さえ良ければいいの」という箇所はまさに核心でしょうね。「私の方があなたたちより親のことをよくわかっているの。」・・こんなこと言える先生はなかなかいません。たいていは頭が上がらないでヘコヘコすることが多いですし。

さて、抗議に来たはずの母親はなぜ説得され満足したのか。主人公の女の子の母親が実際に面談する様子が取り上げられていましたが、これが非常に参考になる。重要だと思われるポイントを列挙します。

①集団で抗議に来た母親、それに「個別で話をしたい」と言って「個々」に面談する

上で述べた「自分の子どもだけ見ている」という姿勢をわからせるための手段でしょうね。親が集団で来ても結局は自分の子どもだけがよければいい、という本音を見抜いているからこそ、それに対応したやり方を選んだと思われます。

②事実確認を求め抗議する母親に、自らの教育方針を威厳をもって語り続ける

専門職・プロとしての教師の態度を示す。これは抗議への明確な反論です。で、ここで突っぱねたまま親に反論をさせないようにまくしたて、親に発言させる余地を与えないまま続けざまに・・

③母親の教育に関する方針を褒め、同時に子育てに関する母親の苦労をねぎらう

「お母さんの教育方針は素晴らしい」と相手を褒めて認める。そして「失礼ですが・・ご結婚されてもう何年になりますか?」「15年?ご主人があまり協力されないでお母さんだけが真剣に頑張られているんじゃないんでしょうか。非常にご苦労をされていることと思います」・・と面談している母親の苦労をいかにも「私はあなたの苦労がわかります」と非常に同情的に会話を進めます。世の中、子育てに関する苦労をわかってくれる人はなかなかいないし、同じ苦労をしているものとして「お母さんの苦労はよくわかります」と同情を受けると、やはり嬉しいもの。それがわかっているからこそできる会話の展開方法でしょうね。ドラマでは主人公の母親は「そうなんですよ~私に全部任せっきりで~」と堰を切ったように苦労をしゃべりだして。このあたりドラマとはいえ気持ちがよくわかる気がします。

そして最後、トドメに。

④あなたの子どもを真剣に見て考えているという姿勢をアピール

「和美さん(=主人公の女の子)はやれば出来る子です。私立にも行くことができます。私も教育のプロとして真剣に取り組みたいと思っています。お母さんも一緒に頑張りましょう。」と最後締めくくります。こうなればもう親も「はいっ」と思わず言ってしまいます。この最後の台詞は「自分の子どもの成績が上がればよい」「自分の子どもだけをみてくれればよい」とする親の本音が分かっているからこそ、そこに触れて満足させるための台詞でしょう。こうすることで、今までの不満を満足に変えてしまうマジックが発揮されます。

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概して、サラリーマン時代に研修でロールプレイングをやった「交渉術」を思い起こします。一般的なのは、相手の言い分をまず言わせて、それが妥当でなくとも「そうですね。たしかにおっしゃるとおりです。」とまず同意の姿勢を見せ、それから「ただ、このように考えるとさらにいいのでは?」という風に段々と自分の言いたいことへベクトルを曲げていくというやり方。こうすると相手に不快な感情をあまりもたれずに自分の言いたいことを伝えられます。(現実はそんなにやさしくなかったですが^^)

今回の先生はこれよりも高度な交渉術を展開しています。相手の言い分を認めてしまうと自分の非を認めてしまい立場弱くなってしまうから、あえて「お母さんを褒める」という別の切り口から宥和をはかっていく。そうして最後には味方にしてしまうわけです。このあたりはさすがですね。見ててほんとに痛快でした。あ~あ、お母さんうまくやられちゃった、と^^。

今の教師はこういう交渉術や話術をしっかり学ぶべきでしょうね。ますます地域社会との「合校」という考え方が広まっているし、交渉が必要な場面は確実に増えるでしょうし。そしてその前に、相手が本音で何を考えているのか、そこを見抜く勉強なり観察なりをしておかないといけない。

・・このドラマ、思った以上に学べることが多そうです。その「過激」な指導方法も含めて。

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追記

上記と関係ないですが、教育ドラマって、それなりに面白ければ家族や世代を超えて見ることができ視聴率が稼げるのと、内容自体ある意味「道徳的」だから教育効果も少ないながらも期待できる、という一石二鳥のソフトなんだなぁと思いました。もちろんテレビ局や番組制作サイドは視聴率しか目に入らんのでしょうけど。

さらに追記(7月15日)

相当賛否が激しく分かれていますね。阿久津先生は現代の教育が直視するのを避けているもの、タブーだと無批判にされているものに鋭く切れ込んでいます。特に親の「わがまま」や子どもの子どもらしからぬ開き直りのようなものに真っ向から立ち向かっている感があります。私は断固、教師は専門職であるということを信じて疑いません。このドラマが現代の教育にくさびを打ち込み、教師の復権を促すようになることを願ってやみません。

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July 02, 2005

土曜21時と『女王の教室』

今日の出来事と雑感について。

まず昨日の夜疲れてコンタクトをはずさずに寝たのが災いし、朝から角膜炎を発症。痛さに悶絶し涙を流しつつ午前中を送りました。おかげで授業に行けず。午後過ぎにどうにか回復、でも文献も読めずに一日ベッドで過ごしました(--)

ここんとこ、いい感じで体重が落ちてきたのですが、昨日から体重が逆走してます。いつもと食べる量は変わらないのになぜリバウンドするのか?どうやら体調がここ数日思わしくないのが原因のよう。この1週間、けっこう運動した(ジムのマシンの上で相当走った)のですが、普段慣れないことをして身体に乳酸がたまったことが体調に影響しているようです。まあサラリーマン生活をしてたときにはここまで運動せんかったから、さびついた身体を急に使いすぎたことで反動がきてる。金曜日とか授業中に落ちかけたからなぁ・・学部生のときは毎回のように落ちてましたが院生になってからは初めて。そんなもんで、身体にエネルギーを蓄えておこうと身体が仕向けてるようです。早く休んで身体直さんとダメやね。。ああ、昔はこんなんじゃなかったのに(涙)

体重ってナマモノですな。あれ、どっかで聞いた台詞?^^

さてそんなナマモノとして、今日、はじめてヤフオクで出品してた愛知万博のチケットがなかなかの金額で落札されました。金券ショップで売るよりかなりの高額での落札にほっとしてます。ヤフオクって出品は難しそうだなと二の足を踏んでましたが、けっこう簡単でした。出品料は10円だしね。これはオススメ。

もうひとつナマモノとして、バレーボール韓国ラウンドを見ました。約束どおりカオル姫を見て(というかテレビの絵の撮り方がカオル姫ばっかり出してくるもんで)、日本勝利に病床からちょっと喜んでみたり。

そしてバレーの裏番組『女王の教室』を見ました。女王の先生役として『離婚弁護士』でもブレイクの天海祐希が登場です。

この先生、すごいんですよ。この平成のご時勢にテストの成績順に好きな席を選ばせたり、給食も成績順で給食係に配らせたり。でも決して勉強のできる生徒に甘いわけじゃなく、先生に意見する子は言語道断でみんなの嫌がる係をやらせたり。やっぱり他の先生から苦情を言われますが、「私のクラスのこと言うんだったらあなたのクラスの生徒はこんなことしてますよ?」と他のクラスの生徒のこともきちんと把握している様子。前の学校を辞めてから2年間、この先生は何をやっていたか不明。とにかく、謎が多いけど出来る教師、という印象を与える人です。

しかしこんなことして親御さんは黙っちゃいないだろう・・と思っていたところ、予告編では親御さんがやっぱり抗議に来ました。けどなぜか大満足で学校から帰っていって・・。おいおいっ、何を言えばそうなるんだ?と気にさせられちゃいました。私が思うに、不明の2年間は、きっとアメリカに行ってたとか、果ては少年院の刑務教官をやってた、などなどものすごい経歴を積んできたに違いないと匂わせてくれます。来週も見ちゃおっと。

#天海祐希を見るたびに、TAMYとよく似てるなぁという気がすんねんけど・・(笑)

ところで、この日テレ土曜日21時は『ごくせん』『瑠璃の島』と、いつから教育ドラマ枠になったんでしょうか?(笑)ほかにも、いわゆる「底辺高校」から東大合格者を5人出すと宣言する阿部寛主演『ドラゴン桜』(7月8日金曜日22時~)とかありますし。

むかし、ドラマとかドキュメンタリーは「時間・ヒト・場所」が重要、なんてことを聞いたことがありますが、まさしく教育が取り上げられるべき時代なんでしょうかね。まあ一番の理由は「ごくせん」のブレイクにのって「金」になりそうだからというのが本音でしょうが。。

そんなもんで明日は目も全快するだろうし、ちょっと外出して気晴らししてきます。

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