July 05, 2009

JK・JC・JD。

ドラマ『臨場』は非常に秀逸な作品であり、ラストの2話は久々にドラマで泣かせてもらったり、かと思いきや完全に駄作と断言させてもらいますが『婚カツ』もあったりと今クールのドラマが最終回を迎えて一学期もついに終わりました。今年は女子校の中3に手を焼いてます。

女子中学生(最近はJKならぬJCという隠語があるそうな)とは院生で夏休みに塾講をしていたとき以来。埼玉の某塾で傍若無人な態度をとりまくる女子中学生から、「もっと若い“奴”いなかったの?」(奴よばわりされるいわれはない)「もっとカッコイイ先生にしてよ」(カッコ悪くて悪かったね)「ガイジ」(障害児のことらしい。理解不能なことをいう奴に対する彼女なりの隠語だそう。あほか)などと言われ、一度厳しくガツンと言ってやったら「もうこんな授業絶対出ない、出てやらない」と言われ(といいつつ彼女らはちゃんと次も来たけれども^^)、暴力的な言葉の“洗礼”を浴びせられてきて、これじゃ世の多くの公立の先生方は気持ちを病む人も多いのは頷けるな・・と感じて3年後。

幸いにも、いま勤務している女子校は学力的にも家庭的にもしっかりしている子が多いからそれほど生活面は問題ないだろうと去年担当していた“JK”を見て思っていましたが、やはりお年頃の“JC”は基本的に変わらない部分があるのだと実感し、改めて「女子中学生」なるものを考えさせられました。

具体的にこんな現象を体験しました。

・目の前に私がいる状態で「あいつ」呼ばわり、もしくは呼びつけで呼ぶ(聞こえてるっちゅうねん)

・授業に乗り気がしない場合、高校生なら多くは「寝る」「内職する」という選択肢をとれるが、露骨に「つまらない」と言葉に出して喋りだす、しかもそれを共有しようと友達に同意を求め、仲間をつくろうとする

・気の合う友達がそばにいると一緒になって教員を「おかしい」「変」だと非難し、異質なものだと排除する(俺が触ったものを“ばっちぃ”ものにするとか)
 
・昨日まで話しかけてくるなど親しくやれていると思っていたら、急にがらっと態度が替わってよそよそしくなる


たまに言葉がジャックナイフのように鋭くて、心にグサっとくることもしばしばですが、思うにこのぐらいのお年頃の女子中学生は、自分も他人にもダメージを少なくするような行動の仕方が身についていないんでしょうね。ある種「子どものやることだから」と割り切りが必要で、「子どもだから」と思ってどんなことを言われても信念もって叱るときは叱る人でなければだめなんだろうな、というのが私の感想です。

さいわい、私は数年前の免疫があるゆえ、多少傷つきながらも“べホイミ”的な癒しがあれば全快するくらいの浅い傷なので大したことはないのですが・・ただやはり「慣れ」は必要だと痛感しました。プライドの高い人、非難されることに慣れていない人ははかなりの確率で傷つきますよ、絶対。

あと、進学校だからというのもありますが、やはり授業をしっかりしたものをやればそもそも勉強する彼女たちは基本ついてくるという実感も得られました。この点、やはり優秀な生徒の多い学校は解決策も見えていて楽だ、といえるかもしれません。一般の公立だとこうはいきませんもんね。。

でも、一人ひとりと話すとさして問題ないように思えるところが不思議です。群れると豹変するのが“JC”も“JK”も怖いところか。

その点、男子校の方の中学生はエロい話をするだけで爆笑がとれるなんざ平和なものです^^ これは男女の違いだからなのか、同い年の女子に比べて男が精神的に子どもだからなのか、どっちなんでしょ。

まだまだ生身の子どもを勉強せにゃあかん、というのが一学期の反省です。


追記
“JK”から“JD”になった卒業生がよく遊びに来てくれ、うれしいことに私も呼び止めてもらえるのですが、もはやばっちり化粧して“変身”してしまった彼女たちを見ても、8割がた誰だかわかりません・・アウチ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 23, 2008

子どものしかり方。

子どもの叱り方、ということで私も日々これには気をつけないとなぁと思っています。
記事を転載します。

<子どものしかり方>思春期編 焦点絞り、具体的に
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20081123mog00m040002000c.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20081123mog00m040003000c.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20081123mog00m040004000c.html

◆反応に変化

「待ちなさい」「もう、いいっ」--。背を向けた長男(14)を追いかけながら東京都三鷹市の会社員、亮子さん(44)=仮名=はため息をつく。「最近、物知りになり親に言い返す。きつくしかるとプイッと行ってしまいます」

思春期の子どもの扱いは難しい。学校マガジン「おそい・はやい・ひくい・たかい」編集人で名古屋市の小学校教員、岡崎勝さんは「善悪を明快にシンプルにしかって」と勧める。10代の子どものしかり方はもともと気を使うものだが、10年ほど前から子どもの反応が変わったと、岡崎さんは指摘する。

目立つのは次のタイプだ。
(1)しかられることをどう受け止めていいかわからず笑ったりする
立ち直りが早く同じことを繰り返す
(2)暴力をふるわれてきたため、男女関係なく粗暴。言葉でしかっても通じにくい
(3)理屈をこねて言い返し、通用しないとキレる
岡崎さんは「幼少時に善悪を明確に教えられない親が増えた」とみている。「学校の物を壊さない」などの基本的な事柄を理解していない子が増えた。(3)のタイプは、親が理詰めで納得させようと試みて、何をしかられているのかの焦点がぼけてしまった状態のことをいう。

◆事後のケア大事

「親は自分の正義感や怒りをぶつけていい。社会の規範が崩れ、大人も迷うのでしょうが判断に悩むことはしからなくていい。私は生徒に茶髪は『いけない』ではなく、『先生は良くないと思う』と伝えています」
悩みなどはしかった後で聞く。小学校高学年ともなれば大人と同様に自尊心が傷つく。事後のケアが大切だ。良くないのは母親が父親の顔色をうかがってしかるケース。子どもに何が問題なのかが分かりにくいからだ。
長崎県大村市の精神科医、宮田雄吾・大村共立病院副院長は「効果的にしかる技術が必要だ」と提案する=表参照。

話し合いも

ぜひ把握しておきたいのはしからない方が良いケースだ。人を陥れるうそは厳しくしかるべきだが、周囲に調子を合わせようとしたり、本人が体面を保つためにうそをついた場合がそれ。「そう?」と受け流し、子どもの気持ちを肯定してから他の言い方を教えるといい。知識や能力が足りず失敗した場合や不登校などで悩んでいる時も同様だ。「分かっていてできないことをしかられたら大人でもつらい。問題解決を話し合うなど対応を変えましょう」と宮田さんは指南する。【大和田香織】

コミュニケーション重要

教育情報誌「プレジデントファミリー」は今夏、学習塾の市進学院と共同で小6親子295組を対象に、成績上位層と普通層のしかり方を調べた。「スパッと短くしかる」は上位層で親53%、子31%、普通層で親44%、子20%だった。「親の体験を話す」「たとえ話をする」などしかり方に工夫している割合はいずれも上位層が普通層より少なかった。鈴木勝彦編集長は「コミュニケーションをとり、子どもをよく観察することが大切」と話している。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 06, 2008

教育の地方分権危機

私も藤田先生と同意見なので引用させていただきます。

地方分権・学校裁量権の暴走と公教育の危機
―杉並区立和田中の進学準備塾「夜スペ」が象徴するモラル・ハザード

国際基督教大学教授 藤田英典
http://www.kyoikukaikaku.com/teigen/fujita080220.htm

問題の経緯
 民間企業出身の藤原和博氏が校長に就任して以来、学校改革先進校として注目されてきた杉並区立和田中が、2008年1月26日より、某大手進学塾の出張夜間塾「夜スペ」を開始し、注目されている。同校HPに掲載された藤原校長の弁によれば、「私立に行かずに済む受験サポートを、全国の公立中学校に先駆けて、地域本部主催で行います。平日の夜に学校で開く進学塾。中2の1月から1年間の集中講座。これにて「私立を超えた公立校」を確立します。 公立校の弱点である「吹きこぼれ」を出さないため、都立の進学重点校や私立の中上位校を狙う夜の特別コース。『夜スペ』と名付けました。」とのことである。
 

 東京都教育委員会は「(1)希望しても受けられない場合があり、機会均等の確保に疑問がある(2)特定の塾が学校を利用して営利活動をしていると疑われかねない(3)教材づくりに教員がかかわり公務員の兼業兼職の疑いがある」という3点を問題視し、杉並区教委に実施再考を求めたが、それに対して、同区教委は「教育の地方自治分権が求められる今日、残念だ」と反発し、和田中も「(1)補習は今後も続け、全生徒に目配りしている (2)授業1コマ500円と格安で、塾側にほとんど利益はない(3)教師にももうけはない―」と反論(以上、朝日新聞asahi.com1月8日及び10日より)。結局、都教委は区教委から提出された回答書を受け、「指摘した疑義はクリアされた」として容認し、1月26日から実施されることになった(朝日新聞1月24日朝刊)。

和田中・夜間塾の問題性
 都教委の朝令暮改的な対応にもがっかりだが、容認的・好意的なマスコミの反応(朝日新聞・毎日新聞の社説など)にも呆れるばかりである。ちょっと考えただけでも、次のような問題点を指摘することができる。
(1)和田中及び同校区に直接かかわる具体的問題
 ①私企業の営利活動・宣伝活動に加担・便宜供与することの問題性(同塾は施設費・光熱費等を負担するわけではないので赤字営業にならないはずであり、加えて宣伝効果は絶大なものである)
 ②生徒・保護者を選別・差別・分断することの問題性(一部の成績上位者だけを選別対象とし優遇することの問題性に加えて、生徒・保護者・地域住民の間に不信感・亀裂・分断を引き起こす危険性や、「都立の進学重点校や私立の中上位校」を狙うような成績上位者でなければ特別配慮に値しないという隠れたメッセージを子どもたちに伝え被差別感・不信感等を抱かせかねないという問題性)
 ③「夜スペ」決定過程の問題性(和田中の教職員・保護者等の意向を無視したトップダウンの決定の問題性に加えて、保護者の自由な意見表明を封殺することの問題性)
(2)公教育(特に小・中学校段階の教育)の在り方にかかわる一般的・理念的問題
 ①テスト学力偏重教育・受験準備偏重教育への傾斜動向に棹さすことの問題性
 ②教育機会の格差拡大を容認・促進することの問題性(<できる子>の優先・優遇を容認・促進する改革動向に拍車をかける危険性や、教育機会の地域間・学校間格差の拡大を促進する危険性)
 ③地方分権・学校裁量権(校長裁量権)の濫用・暴走の危険性(実施主体は学校ではなく学校支援地域本部だと言うが、地域本部であれば何をやっても良いということにはならないし、今回の場合、校長が率先して企画・決定したという事実も変わらない。そして、こういうことがまかり通れば、地域間・学校間の無用かつ歪んだ競争を促進することにもなりかねない)
 ④教育の市場原理主義的・新自由主義的再編を促進することの問題性(塾産業の拡大や営利企業の学校現場への過剰参入を促進することの危険性・問題性に加えて、教育の公共性・適切性の軽視と私的効用・市場的価値の過度の重視によるモラル・ハザードが加速することになりかねない)
 和田中・藤原校長はもちろん、杉並区教委も都教委も、これらの諸問題について十分に検討し、良識的かつ賢明な判断・決定をする責務があったはずであるが、マスコミその他の諸情報より判断するかぎり、その責務が十分かつ適切に果たされた形跡はない。それだけに、今回の和田中・夜間塾の実施及び区教委・都教委の対応は、地方分権・学校裁量権の濫用・暴走を象徴するものだと言わざるをえない。

「吹きこぼれ」対策及び高校受験向け特別対策という主張の問題性
 冒頭の引用文にも示されているように、同夜間塾は『公立校の弱点である「吹きこぼれ」を出さないため、都立の進学重点校や私立の中上位校を狙う夜の特別コース』なのだそうである。この言明には、少なくとも次の3点で重大な問題がある。第一に、「公立校の弱点である」と書くことにより、<公立校は受験対応という点で十分なことをしていない>、<他の公立校はそういう努力を怠っている>というメッセージを流布し、他の公立校を貶めている。これは、藤原校長が就任して以来、何か改革を行うたびに強調・公言してきたことだが、あまりに独善的で不当な主張といわざるを得ない。
 第二は、高校受験に関する事実認識の歪みと、その歪んだ認識に基づいて受験準備偏重教育への傾斜やそのための学校間・地域間の有害な競争を促進しかねないことである。高校入試競争は、首都圏のように私立高校の割合の高い地域を除けば、高校通学区域内での競争であり、全県一区の広域選抜制が採用されている場合でも同一県内での競争であって、他学区・他県の生徒との競争ではない。また、ほとんどの私立中学は中高一貫校であり、そのほとんどすべての生徒は併設高校に内部進学するから、高校入試競争は事実上、公立中学校の生徒間の競争であって、私立中学の生徒と競争するわけではない。したがって、中学校教育の理念(望ましいあり方)とフェアな競争を重視するなら、和田中「夜スペ」のようなプログラムは無用だというだけでなく、子どもや保護者の間に無用な不安を掻き立て、公立中学校における入試準備教育の歪んだ競い合いを促進し、公立中学校間の格差を拡大することにもなりかねないという極めて危険なものである。
 第三の問題性は、「吹きこぼれ」を「公立校の弱点」と見なし、夜間塾「夜スペ」を「吹きこぼれ」対策だと主張している点である。「吹きこぼれ」は「落ちこぼれ」の対義語として最近一部で使われるようになった言葉だが、これは最近とみに目立つようになったモラル・ハザードの一つの表れと言える。授業のレベルや進度が自分の学力より低すぎる・遅すぎるとか授業内容を塾などでとっくに学習し終えているとかいった理由で、学校の授業がつまらない、授業に熱心になれないという子どもが増えていることは事実のようである。しかし、もし夜間塾が「吹きこぼれ」対策になるとしたら、そもそも「吹きこぼれ」と言われる昨今の問題は起こらないはずである。なぜなら、進学塾に通っている子は、そこでケアされているはずであるから、「吹きこぼれ」にはならないはずだからである。
 一部の子どもにとって授業のレベルや進度が低い・遅いといったことは、今に始まったことではない。戦後60年、小・中・高校のどの段階でも、たいして勉強しているようには見えないのにいつも試験で満点(に近い成績)をとる子、教師でも苦労するような問題をすらすら解く子、膨大な小説・文学作品を読みあさっている子、難解な哲学書などを読み思索にふける子、教師も思いつかないような洞察力に富む意見を理路整然と展開する子など、挙げればきりがないほど、いろんな<できる子・優秀な子>がいた。しかし、そうした子どもたちも、混合クラスでみんなと歩調を合わせて学んでいたし、居眠りしたり内職したりすることはあっても、授業を妨害したり、学習意欲喪失に陥ったりするということはほとんどなかった。ところが、最近は、学校での授業のレベルや進度が低すぎる・遅すぎるから「吹きこぼれ」になるのだという。これは、たんに授業のレベルや進度が低すぎる・遅すぎるからではなくて、学校教育に期待するものや授業への構えが変化し、テストで測られるような学力や受験準備を重視する傾向が強まってきたからであろう。進学塾などで(受験に特化した)学習を学校の授業に先んじて行うようになればなるほど、小中学校時代の学習・勉強をそのようなものに矮小化し、学校の授業にもそのようにしか関われなくなるからであろう。そうであるなら、和田中・夜間塾はそうした傾向に迎合し拍車をかけるものでしかない。それでよいと考えるのかどうか。いま、日本の教育はその重大な岐路に立っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 30, 2008

発達障害児と母。

「三つの苦しみ」子育ての地獄(AERA 9月29日)http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080929-00000001-aera-soci

 当初から疑いの目はただ一点に向けられていた。告別式の2日後、親族のかすかな望みは打ち砕かれた。

「本当のことを聞きたい」

 福岡県警の捜査員にそう語りかけられると、被害者の母、富石薫容疑者(35)は泣き崩れ、自らの犯行を一気に話し始めた。

9月18日、福岡市の公園トイレで薫容疑者の長男弘輝君(6)が首を絞められ殺害された事件。供述を二転三転させるなど、薫容疑者への疑いを強めていた同県警は、告別式の終了を待って、母親の本格的な事情聴取に踏みきったのだった。
 あの日は、雨上がりの、晴れ間がのぞく散策日和で、母と子は普段どおり連れ立って、ドーナツを作るための卵を買いに出かけた。途中の公園で弘輝君ははしゃぎ、水の溜まったタイヤで遊ぼうと母を誘った。

「お母さんは遊べないのよ」

 そう答えた薫容疑者には、原因不明の難病によって足に力が入らなくなる障害があった。両腕も肩の高さまでしか上がらなかった。
 普段から体の不自由な母を助けていた弘輝君はむくれた。遊んでくれない、授業参観にも来てくれない。日々のそんな寂しい気持ちもあったのかもしれない。トイレで立ち上がるときの介助を母に頼まれると、弘輝君は突っぱねた。それは母と子の、ほんの小さな気持ちのぶつかり合いでは済まなかったのか。

「介助を断られ、絶望的になって殺しました」

 公園近くのマンションに、薫容疑者と弘輝君、夫(33)の3人は暮らしていた。換気窓越しに室内をうかがうと、無造作に丸まったままの布団や洗濯物。ラップや栓抜き、プリント類が散乱し、足の踏み場がなかった。

■自らの難病と子の障害

 実は弘輝君が5歳のとき、薫容疑者は療養のため転居している。夫を実家に残し、弘輝君を連れて自分の実家へ。両親、姉家族との賑やかな暮らしだったが、1年でマンションに移り、3人で再出発したのは最近だった。だが、薫容疑者の症状はその間も悪化していったようだ。

 近所の女性は事件の1週間前、マンションの敷地内を弘輝君と歩く薫容疑者を見かけた。痛みに耐えているのか、歩く姿はお年寄りのようにみえた。
 さらに、翌日にはこんなこともあった。

「開けてー!」

 10分ほどして女性宅の呼び鈴が鳴った。

「近所に住んでいる富石弘輝ですけど」

 ドアを開けると、雨ガッパを着た弘輝君が留守の自宅に入れず、泣きじゃくっていた。

■完璧を求めた子育て

 普段持ち歩いている携帯電話も室内に置いてきたといい、弘輝君は1階の郵便受けに入っていた出前店のチラシを持って、こう言った。

「これが電話番号」

 女性が携帯電話を貸すと、弘輝君はチラシの数字を短縮ダイヤルで押した。同じことを繰り返したが、女性が登録している番号にかかり、母親にかかるはずもない。ほどなくして父親が走ってきて、母親の病院が長引いたのだとわびたという。

 その夜、再び女性宅の呼び鈴が鳴った。玄関先で薫容疑者が頭を下げていた。

「きょうはすみませんでした」

 手渡された有名洋菓子店の紙箱には、シュークリームが3個入っていた。弘輝君には軽度の発達障害があり、特別支援学級に通っていたことを、女性は後に知った。

 薫容疑者は両親とも公務員の厳格な家庭で、3人姉妹の末っ子として育った。小学校では学級委員を務めるしっかり者だった、と同級生は言う。
 小学校高学年のとき、出し物の練習をしていたときのことだ。級友らはふざけてばかり。薫容疑者は「何でちゃんと練習しないの」と叫んで教室を飛び出した。男子らが後を追うと、廊下の隅で泣いていた。

「とにかく責任感が強く、弱音を吐かないタイプ。誰かに相談しようとはしなかった」

 そんな性格は、子育てでも完璧を求めた。発達障害の子どもを受け入れる優しい母親。それが理想像だった。衝動的に激しい行動をすることがある息子にたたかれて右肩にアザができても、「階段で転んだ」と夫にも嘘をついた。育児ストレスもあってか症状が悪化し、医師に入院を勧められても頑なに拒んだ。

■事件直前に自殺未遂も

 事件の10日ほど前、薫容疑者は睡眠薬を大量に飲んで自殺を図っている。それから、弘輝君は、母の「見張り」までするようになった。

 東海学院大学大学院の長谷川博一教授(臨床心理学)は推察する。

「子の発達障害、自分の身体障害、強すぎる責任感の三重苦。公園で楽しそうに遊ぶ親子たちを見て、自らの境遇と比べたのかもしれません」

 弘輝君にトイレの介助を断られたとき、「何でそんなことしなきゃいけないの」と言われて絶望的になったと供述しているが、長谷川教授はもう一つの引き金を指摘する。

「なぜ私ばかり、という本音があった。抑え込んできた言葉を子から投げつけられ、楽になりたいと思ったのではないか」

 自殺するために持ち歩いていたビニールホースをカバンから出し、息子の首に巻いて絞めた。遺体を抱きかかえ、トイレ外の柱の隙間に体育座りにさせた。数十メートル先の雑木林に分け入り、わが子の「命綱」だった携帯電話を投げ捨てた。
 三重苦から這い上がる方法は、他になかったのか。同じような事件は全国で後を絶たない。
 片時もじっとしていない。家中を走り回り、物を壊す。叱っても、同じことを繰り返す。

「何でわからないのよ……」

 3月、関東地方の30代の母親が、発達障害のある5歳の長男を殴ったうえ、立たせて椅子に縛り付けた。動けないよう床に画鋲をまき、食事も水も与えず一晩放置した。翌朝、自ら呼んだ救急車が到着したときには、長男は脱水症状でぐったり。母親はその子を抱いて呆然と座り込んでいたという。

■子の発達障害と苦悩

 母親はシングルマザーで経済的に苦しく、摂食障害とうつにも悩んでいた。
 両親に相談したこともある。奇声を上げて走り回る孫を一目見て、両親は言い放った。

「あんたが何とかしなさい」

 迷惑はかけられない。保育園への送迎もままならず、2人きりで一日中、部屋にこもった。長男の後頭部は、何度も叩かれたため髪が薄くなっていた。
 発達障害は、自閉症、アスペルガー症候群、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などと幅広いうえ、先天的な脳機能障害であることすらあまり知られていない。しつけや愛情不足が原因と決めつけられ、傷つく母親も少なくない。
 発達障害の子どもと親を支援するNPO法人「アスペ・エルデの会」代表の辻井正次さん(中京大学教授)は言う。

「発達障害児の母親は抑うつのリスクが高い。障害を受け入れて、というだけではますます追い詰めてしまう。子どもの行動に適切に対応できるよう具体的に親に教える子育て支援が急務です」

 子どもの将来を悲観する母親たちは、子どもに自身の人生までも投影してしまうのだろうか。

■悔やむ容疑者の実母

 警察庁のまとめでは、今年上半期に子どもの殺人・殺人未遂容疑で検挙された実母は16人。うち11人は一緒に死のうと、犯行後に自殺を図ったという。

『心に狂いが生じるとき』の著書がある精神科医の岩波明さんはこう話す。

「母親は子どもとの一体感が強く、特に日本は母子心中の割合が高い。子どもを独立した人格として認めず、親の所有物とみる傾向があります」

 一方で、類似事件の捜査関係者の中には、

「我が子を手にかける母親は、限りなく自己愛が強い」

 という見方もある。

 弘輝君がもう答えないと知っていながら携帯電話の全地球測位システム(GPS)機能で捜すふりをした薫容疑者は、何を思っていたのだろうか。逮捕後にこう漏らしている。

「一人で抱え込み過ぎなければよかった」

 26日、アエラの取材に答えた薫容疑者の母親も、同じことを話していた。

「もうちょっと早かったら」

 薫容疑者の症状が悪化し、手足の痛みが増していたころ、母親は脳出血で倒れ、様子を見に行けなくなった。

「仕事は休んでるけど、元気よ」

 電話で気丈に振る舞い、決して弱音を吐かない娘を、母は心配し説得した。

「でもやっぱり大変やけん、もうね、こっちに帰っておいで」

 それでも薫容疑者は弘輝君を優先した。発達障害の特性の一つで、したいことを中断されるとパニックを起こす。きちんと話して納得させてから引っ越したいから――。そう言って小学校に相談した矢先、事件が起きた。

「本当に、あともうちょっとで間に合わなかったんです。有無を言わさず連れてくればよかった、と思っとうとです」

 母親は、涙でくぐもる声を絞り出すように語った。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

August 07, 2008

「父原病」が子を壊す。

ひとつ前の記事で、少子化が及ぼす教育への悪影響に関する記事を載せましたが、それと関連して父子関係についてのAERAの記事です。私としても最近の子どもの凶行の原因として、父子を含めた親子関係の変化が大きな要因として挙げられると考えます。(以前こんな記事も書きましたが)

以下、引用します。

止まらない子どもの凶行 「父原病」が子を壊す AERA 2008年8月4日号 

子どもが家族や社会に牙をむく。父の存在感が事件に影を落とす。過干渉、無関心……。現代の父子関係はどうあるべきか。父はただ悩む。

 父と娘が一緒にチキンカレーを作り、ビデオ鑑賞する。幸せな光景が数時間後、一変した。

 埼玉県川口市で7月19日、中学3年の長女(15)が寝ている父親(46)を刺殺した。長女は小学校高学年の頃から、

「お父さんむかつく、うざい」

 が口癖だった。逮捕後もこう話している。

「両親から『勉強しろ』と言われて、うっとうしかった」

 16日に愛知県でバスジャック事件を起こした中学生男子(14)の父は、子どもの部屋に「成績が落ちたら違う人生を考える」という張り紙をさせ、携帯電話を取り上げて勉強させていた。一昨年、自宅に放火して母、弟、妹を殺害した奈良県の高校生男子(16)の父は、勉強部屋を「ICU(集中治療室)」と呼んで、つきっきりで勉強を教えていた。

学校説明会は父ばかり

 いま、過干渉の父親が増殖している――。

 千葉県の男性(45)は、小6の長男(11)を大手進学塾に通わせ、「開成中」合格を目指している。毎朝6時に長男と一緒に起床、出社前の1時間を勉強を見る時間にあてる。週3回塾が終わる午後9時、迎えに行くのは常に父の役目だ。

「妻は、勉強ばかりではダメだと中学受験に反対した。でも私としては、少しでもいい学校に入れて、いい環境といい友達を与えてあげたいと思う」

 長男の受験のため、飲み会や自分の趣味は我慢している。妻や次男がテレビを見る時は、ヘッドホン着用で音を外に漏らさないという決まりも作った。

 長男は学校のテストはほぼ100点で、通知表のほとんどがAという優等生だが、塾では、せいぜい「中の上」。落ち込む長男を見て、少しでも成績が上がればと父は猛特訓に励む。

「教えた分だけ成績が上がって、子どもが喜ぶ姿を見ると心底うれしい。手綱を締めたり緩めたり。さじ加減一つで結果が変わってくるので必死ですよ」

 最近は中学受験のための学校説明会に参加する父親も格段に増えていると、安田教育研究所の安田理さんは言う。

「子育てはやはり母親が主役。でも唯一、受験は数字や分析がものをいうので、父親の得意分野でもある。仕事の延長線上でついつい熱が入る」

圧迫上司型は実績重視

 安田さん自身、2人の子どもに中学受験をさせた。6年後の大学受験を考えて、大学合格実績を伸ばしていて、算数が苦手な息子に合わせて、理科、社会の配点比率の高いところを受験させた。子どもが行きたい学校は聞かなかった。

 息子が成人してから、

「中学受験はしたくなかった」

 と当時を振り返って言った。子どもの気持ちを無視していたと、いまは反省している。

 埼玉県で30年間塾を営む中山百合さん(58)のもとには、小2女子の父親からこんな電話がかかってきた。

「通知表は(5段階の)3ばかり。塾に通わせているのに、月謝相当の効果がないじゃないか」

 仕事の合間に携帯から電話をかけてきたようで、20分間続いた。年々こういう父親からのクレームが増えている。特に、通知表をもらった直後、数字に敏感に反応して電話がくる。

「父親は母親と違って常時子育てに関わるわけではない。だからこそ、一時的な評価に一喜一憂してしまう」

 数字に敏感で成果重視。まるで会社の上司そのままの態度で子どもに接する父は、干渉型の中でも「圧迫上司型」だ。

 最近の事件でも、「目標点数の張り紙」「成績のことで暴力」など、この型に当てはまるケースが多い=23ページ表。

 だが今回、川口で起きた父殺害事件は違った。一見フレンドリーな父子関係が、子どもにとっては「うざい」。

 出版社に勤める男性(53)は、中2の次男が小5の時、学校の提出物に書いていた言葉が忘れられない。

「父親の嫌なところ――休みになると強引に外に連れて行こうとするところ」

 子どもが小さいころは忙しく、家に帰らず2~3日徹夜することもあった。子どもがどう成長してきたかほとんど記憶にない。

フレンドリー型も悩む

 だからせめて埋め合わせしたいと、数年前から、土日のたびに、博物館、キャッチボール、手料理と、自分では子どもとの距離を縮めているつもりだった。それを息子が嫌っていたとは想像もつかなかった。

「一番大事な幼少期に関わっていないと、急に無理をしてもダメだったのでしょうか」

 今年春、次男と二人きりで富士山にドライブした。だが、次男は途中からずっと携帯ゲーム「実況パワフルプロ野球」に熱中。家族で旅行した時も、iPodを耳にしたまま。どうやって関わればいいのか、正直わからない。

 大手広告代理店に勤める男性(46)も「フレンドリー型」があだになった、と悩む。

 長男(19)が小5の時、単身赴任が決まった。毎日5回ほど電話し、子どもにはその日学校であったことや食事の中身などを聞いた。権威的にならないように、言葉遣いも気をつけた。

 そういう仲の良い親子だったからこそ、高校に入ってからも子どものバンド活動に加わり、他の親子以上に密接だった。でも、息子は息苦しさを感じていたのかもしれない。高2の時、まる一日連絡もしない息子に、

「メールぐらいしろ」

 と怒鳴ったら、殴られた。その一回のケンカが引き金になって、その後、息子は口をきかなくなった。

「『勉強をしろ』と追いつめた覚えはない。子どもと密接なことが逆効果になるのなら、父親なんてやってられませんよ」

 今年3月、岡山駅で県職員を突き落として殺害した少年(18)と、父(56)もそうだった。携帯でよく連絡を取り合い、父から言わせれば少年は「父ちゃん子」。事件後、父は言った。

「小中学校と同じように接してしまい、子どもには負担だったかもしれない」

 いまの父親世代が青春時代を送っていたとき、父は家にいなかった。父にしてもらったことに記憶がない。「ロールモデル」がいないのだ。

「うるさい」を封印

 しかし、自分が父親になったら、女性の社会進出が進み、父親が子育てに関わるのは当然になっていた。

「親父からは怒鳴られた記憶しかないので、僕も子どもにそうしていたんですが……」

 と、戸惑うのは中2の息子を持つ埼玉県の男性(44)。息子にゲンコツは当たり前。息子の言い分は、「うるさい」の一言で一蹴してきた。

 小6の夏休み、息子が突然荒れた。家の窓からスーツや家具を庭に次々と投げる。家の壁を鉄骨がむき出しになるまで破壊する。テレビの通販番組に勝手に注文して、高級品を買う。警察沙汰になったこともあった。

 そこまで来て、自分のやり方が間違っていたと気づいた。とにかく、息子の声に耳を傾けよう。「うるさい」は封印した。

 約1年後、久し振りに息子から「お父さん」と呼ばれた時、うれしくて涙が出た。

 関東地方に住む40代の父親は、子どもにスポーツでの活躍を期待するあまり、いつもご褒美をちらつかせていた。

「大会でいい成績だったら、DSを買ってあげるよ」

「県大会に出たら、携帯電話を買ってあげるよ」

 やる気を出させるためと思っていたが、物でつるのがいいはずはなかった。子どもは心からスポーツにのめりこんだわけではなかった。途中で練習をさぼるようになった。今では、無理やりスポーツをやらせた父親に反発して口もきかない。でも、ほかにどうすればよかったのか、答えがわからない。

父を「理想化」しすぎ

 ロールモデルなき父に指針を示すのが、ネットや本にあふれる子育て・教育マニュアルだ。過剰に信じて、その通りにいかないと不安になる「マニュアル型」過干渉も増えていると、前出の安田さんは指摘する。

 圧迫上司型、フレンドリー型、マニュアル型……。様々な父の過干渉は子どもを追い詰めている。父が原因で、子どもが病んでしまう「父原病」――。それは、「母原病」より深刻なのかもしれない。

「父の存在が子どもを壊す可能性の方が、母が壊す可能性よりも大きい」

 思春期で難しい内面を抱える娘(15)を持つ女性(47)の実感だ。この女性は有名企業の正社員として働く。共働きだが、子育ての主軸はどうしても母親。娘とはバトルを繰り返し常に不満を発散し合っているので、娘は極端にキレない。

 一方の夫は、家事に協力的だが、娘と向き合う時間は少ない。娘を理解しづらい夫が気に障ることを言うと、娘はガッと激しくキレる。先日は、パソコンを使っている娘に夫が、

「宿題はしたのか」

 と声をかけた瞬間、

「うるさーいっ」

 と大声で叫んだ。ニュースの中の事件は決して他人事ではないと思っている。この女性は夫に、こうくぎを刺している。

「たまに関わってかき乱すくらいなら、関わらない方がいい」

 川口の父殺害事件で、母親は学校に謝罪する電話の中でこう言った。

「勉強しろと厳しいのはむしろ私の方だったかもしれません」

 うるささで勝る母よりも、父に娘の激しい怒りが向いた。前出の女性が感じるような、父親という特殊性と関係しているのかもしれない。

 格差社会が父の存在を遠ざけていると指摘するのは、前出の中山さんだ。「学歴社会」の現実を目の前にした「上流父」の呪縛なのか、教育熱心な家庭ほど父の社会的地位も高い傾向にある。受験に熱心な過干渉型の家庭内では、父を極度に理想化する傾向もある。

「父のようにならなければ、と子どもが感じて行き詰まっていることが多いかもしれません」

 川口の少女も製薬会社の父の影響からか、将来の夢は「薬剤師」だった。果たして、それは本心だったのだろうか。

「今の日本では、思春期に反抗期がない傾向が見られる」

 と、東京成徳大子ども学部長の深谷昌志教授は指摘する。いくつになっても金銭的援助や身の回りの世話を親がする「超過干渉親」が増えた結果、子どもは反抗して自立するより、ずっと親に依存している方がメリットが大きいと感じているからだ。反抗期もない「共依存関係」が、親子間にマグマをため込み、時に大暴発してしまう。

 では、過干渉とは真逆の父親の「無関心」はいいのだろうか。23ページの表でもわかるように、無関心もまた事件を引き起こす要因になっている。

「無関心型」もダメ

 子育てする親の相談にのる「JAMネットワーク」の高取しづかさんによると、相変わらず母親の悩みの主流は、父親が全く子育てに関わらない「父不在」だ。内閣府調査によると、1日に父が子どもと関わる時間が30分以下の家庭は、6割にも達している。

「過干渉」と「無関心」という極端な父の存在が、どちらも子どもを壊している。では、一体父親はどうすればよいのか。

 子どもと共通の話題がないと悩む父親が多いが、得意分野である自分の仕事について語ることが重要だとアドバイスするのは、「ファザーリング・ジャパン」代表の安藤哲也さん(45)。

「たとえ話の内容がわからないとしても、夢や仕事について楽しそうに話す父親の姿を、子どもは見たいと思っている」

 携帯電話が家族のコミュニケーションを阻害するとの指摘もあるが、前出の高取さんは、携帯メールを親子の会話に活用することも勧める。例えば、きれいな花を見た時やおいしいご飯を食べた時、「感動」を交換し合ってはどうかという。

 川口の事件では、「7畳・6畳・6畳」の家で、父を刺した長女が最も広い7畳の部屋を使っていたという報道があった。子が親よりも上にくる環境。それが、千葉県在住の男性(51)には信じられない。中3の長男から今でも、勉強や生活の相談を受ける。秘訣を「妻を大事にすること」と教えてくれた。子どもから「自分とお母さんとどっちが大事?」と聞かれるたびに、

「お母さんが1番。お前たちは残念だけど、2番だよ」

 と言い続けてきた。

 きっと、いい関係になれるカギは、そこここにあるちょっとしたことだ。

 岡山県に住む男性(45)は進路について言い争って、家出までしたことがある高1の長男に、毎月1回声をかけている。

「今晩、行くぞ」

 夜中に2人だけのドライブ。夜景が見える場所で、親子のたわいもない話。あっという間に時間が過ぎる。最初は話題も見つけられなかった。いまは1カ月後が待ち遠しい。

編集部 福井洋平、加藤勇介、木村恵子

| | Comments (0) | TrackBack (2)

May 18, 2008

東欧。

東欧ってちゃんと国名と場所、一致していますか?
地図を作ってみました。授業で使う予定です。

615743527_54

ちなみに「1」と「2」の国名がないのは・・・書くスペースがなかったためです(笑)
当ててみてください^^

しかし、東欧はこんなにも国境線が増えたとは。
私が小学生の時は、まだユーゴスラビアがあって、こんなに国境線なんかなかったのにね。

「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言葉、3つの宗教、2つの文字、そしてただ1つの心」 ※最後の「心」は「国家」や「ティトー」にも置き換えられる。


サッカー好きの私としては東欧の地図を見ると、日本でも活躍したストイコビッチと現・日本代表監督であるオシムを思い出します。とくに奇しくも最後のユーゴ代表監督となってしまったオシムの引退記者会見を。改めて、いまという時代がまだ歴史の途中に過ぎないことを感じます。
http://jp.youtube.com/watch?v=Y9GR7bf5gBw

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 08, 2008

『君が代』拒否考。

日の丸への起立と君が代斉唱を拒否して職務命令違反で処分されたことを理由に、都教委が再雇用を拒否したのは違憲だという判決が出されました。

東京都は他自治体に比べて強権的だという印象は拭えなかったところもあって、私見では司法がようやく「待った」をかけたな、なんて印象を持ちました。

しかし、『君が代』はなぜこうも問題になるのか。なぜこれが教員の世界になると途端にいつまでもくすぶっている問題になっているのか。一度、教員側が『君が代』を拒否する理由について、その理論的根拠を整理する必要があると思いました。

いつも批判の矛先が向けられる日教組の理論的根拠は、昔から『君が代』≒「軍国主義」≒「戦争」→「子供を戦場に送るな!」という「反戦」への訴えで『君が代』を否定していると言えます。個人的には時代錯誤もはなはだしいという印象ですが、「理念」のロジックとしてとしてそれなりに納得できるものではあります。その他考えられるのは、「国家の介入」を忌避する(やや左翼的な)思想をもっており、都教委が強制することに対して反発して歌わない人、というのもいるかもしれません。これはいわば「権力」に対抗するというロジックというところでしょうか。

『君が代』を拒否する態度はおおまかにいってこの二つのロジックの両方、もしくはどちらかに軸足を置いていることで生まれてくるものだと思われます(私見では前者の方が多いかな、という印象)。

・・結局、この『君が代』を拒否して騒ぎ立てている一部教員ってのは、どういう属性の人なんでしょう。日教組関係者でしょうか。組織率も10%台ほどに落ち込み、組織としてはほとんど力を発揮しないからこそ個人が頑張ってしまう部分があるのか。あるいは、まったく日教組と関係なく教員として独自に突っぱねている人なのか。このあたりもっと詳しくみないとなんともいえないな・・

| | Comments (2) | TrackBack (0)

January 16, 2008

藤原校長の「夜スペ」。

学校に関するちょっと真面目な話です。


日テレの「ニュースzero」を見ていたら、リクルート出身の民間人校長・藤原和博氏の杉並区和田中学校の取組みについて特集が組まれてました。

その名も「夜スペ」。平日午後7時以降、大手進学塾「SAPIX中学部」の講師が中2の希望者、約20人弱を対象に指導するそうで、保護者らでつくる「地域本部」が主催し、参加費はSAPIXの正規授業料の半額程度とのこと。授業料は1日2時間半くらいで1回500円。当然採算は合わないですが、SAPIXは採算より宣伝を意識している、と述べていました。提案したのは塾側だとか。

藤原校長による「夜スペ」の案内はこちら。
http://www.wadachu.info/data/yorusupe.pdf

都教委は以下のように指摘しています。

(1)希望しても受けられない場合があり、機会均等の確保に疑問がある
(2)特定の塾が学校を利用して営利活動をしていると疑われかねない
(3)教材づくりに教員がかかわり公務員の兼業兼職の疑いがある

都教委は区教委は区教委の井出隆安教育長らを都庁に呼び、文書で再考を求める指導をしたそうですが、「教育の地方自治分権が求められる今日、残念だ」と反発しているそうな。


都教委の言い分もわかる気がしますが・・これ以前から行われている学校選択制は「機会均等」に反してなくてこれは反するの?その基準は?と逆に聞きたい部分ですけどね。個人個人の要望に応えることと機会均等との葛藤は、本当に解決が難しいところです。

和田校長の改革は次の二つのことを考えないといけないな、と思いました。とくに②は気をつけないといけないところです。

①生徒の「学力向上」のために外部機関である塾および塾講師を招聘した
→教員の指導力向上はなおざりにされていないのか?

頭のいい、聡明な藤原校長なら、「塾講師と教員の相互作用でお互いに学び合ってほしい」なんて回答が聞こえてきそうですが・・

②塾側は採算より宣伝を優先
→一部の学校(とくにマスコミでよく取り上げられるような宣伝効果の高い学校)のみでしか実施しない

つまり、和田中に付随しているプライオリティに塾が「寄生」しているのであって、決して「学力向上」という大義名分のために塾は他の公立校で授業をすることはない、ということです。「夜スペ」はあくまで「和田中の夜スペ」であって全国展開、もとい杉並区展開ですらかなわないかもしれません。

私の意見としては、藤原校長の取り組みは独自性・自律性を評価できるものの、あくまでそれだけだ、という印象です。やるにしても区でほんの一握りの学校だけが可能だろうし、もしこれを「素晴らしい、みんなもやれ」という政治家なり教育委員がいたとしたら、あまりに表層的な判断しかできない人間だと思いますけどね。

(追記)
なお、この和田中では休みである土曜日に「土曜寺子屋」(通称どてら)を行い、普段の学校の授業の補習を行って全体の成績を底上げする取り組みをしています。この担当は教員のほか学校ボランティアや地域の協力で行われているそうです。「夜スペ」と「どてら」に対する藤原校長としては、「どてら」で成績下位の生徒(いわゆる「落ちこぼれ」)を引き上げ、「夜スペ」で成績上位の生徒(いわゆる「吹きこぼれ」)をさらに高みに引き上げようとする意図だそうです。

学校週五日制がはじまって、土曜日の使い方で学力にも差がでていることが言われている昨今ですが、「どてら」はそれを解消する取組みとして生徒からも保護者からもとても評価は高いようです。「夜スペ」はこの「どてら」との“セット”で捉えるとちょっと印象も変わってくる気がします。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 15, 2007

文科省VS財務省。

msnのニュース欄にあった産経ニュースから抜粋。

文科省VS財務省 教職員増員めぐってバトル
http://sankei.jp.msn.com/life/education/071114/edc0711141827002-n1.htm

いじめ、学力低下、理不尽な要求をする保護者…。教育現場を取り巻く厳しい環境に対応しようと、文部科学省は来年度予算で公立小中学校の教職員約7000人の増員を要求している。教師が多忙で子供と向き合う時間を確保できない現状を、人手を増やすことで是正するのが狙いだが、行政改革法が施行され地方公務員の純減に取り組んでいる最中とあって、予算を握る財務省が反発。年末の予算編成に向け激しいバトルが繰り広げられている。

 教職員の定数については、昨年6月施行の行革推進法で削減が決まっている。しかし、その後に教育三法が改正され学校現場に新たなポストが設けられたことなどから、文科省は今後3年間で2万1000人の教員を増やすことを計画した。

 財務省を説得したい文科省は、さまざまなデータをもとに増員の必要性を主張している。日本の公教育支出の対GDP比は主要先進国に比べ3.6%で、先進国(G5)平均の4.9%より低いことを示すと、財務省は児童生徒1人当たりの支出額を算出、G5平均を上回ると反論する。

 ただ、財務省にも教育現場に問題があるという認識はある。文科省の「教員勤務実態調査」では、昭和41年度の教員の月残業時間は8時間だったが、平成18年度は34時間に上っており、子供に向き合う時間が少ない現実がある。文科省は事務的な業務や生徒指導に時間がとられていると主張するが、財務省は事務のIT化で省力化が可能としている。さらに「文科省や都道府県教委などからの調査やアンケートに忙殺されている現実がある。文科省が先頭に立って改革を行い文書量を減らす努力をすれば、教員が子供に向き合う時間ができるはず」(主計局)と手厳しい。

文科省は現場の困難さをアピールするため、給食費を払わない保護者が増えているほか、不登校や学校での暴力行為が増えている実態をデータで示している。これに対しても財務省は「OECD学習到達度調査(PISA)」のデータで反論。「授業中は騒がしくて、荒れている」の問いに対し「ほとんどない」の回答が、日本は44.4%(平均19.9%)だったことを挙げる。

 財務省は「教員の量を増やすより質を高めるのが先決。義務教育に何を求めるか、学校の役割は何かという問題を整理することも必要だ」(主計局)との立場で文科省との議論は平行線のまま。対する文科省も「厳しい声があることは認識しているが、教育の質の向上には教員の定数を増やさなければならない」(渡海紀三朗文科相)と、原則を崩さない構えでバトルの行方が注目される。

*****

ここに書かれている「教員勤務実態調査」は、先週ゼミに来ていただいた研究者の方がやられた調査で、詳しくお話をお聞きすることができました。ここに書かれている内容が感覚的にもよくわかります。

教員の多忙化の原因を概観すると、やっぱり事務作業(書類作成等)が増えたのが一番の要因の様子。で、その研究者の方も言われていたけれども、世間が言われているほど文科省は教育委員会に対して影響力を持っているかといえばほとんどの場合、決してそういうことはなく、むしろ都道府県教委→市町村教委の締め付けが厳しいことが現場レベルでの圧迫感につながっています。

だから、財務省側による以下の話は実際の教育行政の構造をあまり理解していないからこそ出てくる議論だと思います。

>「文科省や都道府県教委などからの調査やアンケートに忙殺されている現実がある。文科省が先頭に立って改革を行い文書量を減らす努力をすれば、教員が子供に向き合う時間ができるはず」

地方分権って聞こえはいいけど、逆に都道府県の締め付けを容認(というか黙認)することにもなるから、そのあたりはよく注視する必要があります。もともと教育委員会は自律的に活動しているケースが多く見受けられるし、実際、群馬県は「教員保護施策」のような取組みも開始されているから、地方分権を強硬に進めなくても施策はやれるんですよね。。

それにしても教育関係者を擁護する政治勢力ってほんっとにないですよね。政治勢力がない替わりに利益団体による陳情攻撃・・自民も民主もどちらも選べないところがイタイところ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『最後の授業』

授業で普仏戦争をやったときに生徒に話しました。ご紹介。


フランスとプロイセン(ドイツ)にはさまれたアルザス地方がこの作品の舞台である。時は1872年。普仏戦争の結果フランスが破れ、それまでフランスの領土であったアルザス・ロレーヌ地方がプロイセンに割譲された時の話である。

――――

アルザス地方に住むフランツ少年は、学校に遅刻してしまい、アメル先生に鞭で叩かれるのでは、と心配したが、先生は何時になく優しく着席を促した。今日は教室に元村長をはじめ多くの大人たちが集まっている。アメル先生は生徒と教室に集まった大人たちに向かって、自分が授業をするのはこれが最後だと言う。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン王国(1871年からドイツ帝国)領エルザスになって、ドイツ語しか教えてはいけないことになり、アメル先生もこの学校を辞めなければならない。これがフランス語の最後の授業だと語り、生徒も大人も授業に熱心に耳を傾ける。やがて終業の時が来て、アメル先生は「ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限りはその牢獄の鍵を握っているようなものだから」とフランス語の優秀さを生徒に語り、黒板に「Vive La France!」(フランス万歳!)と書いて最後の授業を終える。

*****

以上があらすじです。

この物語は、ドイツに対するフランスの「臥薪嘗胆」の物語として感銘を受ける作品ではありますが、作品たるもの、やはり作者の意図なり作為が入り込む部分がやはりあって、このあたりの歴史を丹念に見てみるとどうも実情は違うとか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%8E%88%E6%A5%AD(wiki)

ちなみにいま、アルザス・ロレーヌはフランス領ですね。第一次世界大戦でフランスがドイツに勝利したときにこれらの土地を獲得しています。ここらへんはおいしいブドウが獲れるんですよね。ぜひ行ってみたいもんです^^

| | Comments (0) | TrackBack (0)

August 01, 2007

教育委員会制度(文科省・初中教育ニュース第61号より抜粋)

文科省のメルマガに記載されていた、今後の教育委員会に関する文科省自身の見解です。要点をまとめてみます。

【シリーズ】教育3法 〔初等中等教育企画課地教行法PT〕

『地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律の成立』~教育行政の充実と教育委員会の果たす役割について~
                       

・第166回通常国会にて「教育行政の組織及び運営に関する法律」(以下、地教行法)が一部改正
改正法の主なねらいは、教委制度の基本的枠組みの維持の上での、教委の責任体制の明確化と体制の充実化

1.教育委員会制度の意義について

・教育行政は、国と地方が適切に役割分担をし、相互協力で運営
・国が基本的枠組みや教育内容における全国的基準の設定を実施、地方は各地域の実情に応じ、主体的に教育の質を高め、最適状態を実現
・教委は、地方教育行政の中心的な担い手であり、全地方自治体に設置
・教委は、教育における政治的中立性の確保、継続性・安定性の確保、地域住民の多様な意向の反映を実現するため、地方自治体の長から独立した合議制の執行機関として設置
・教委を構成する教育委員は原則5人で、都道府県知事・市町村長によって、議会の同意を得て任命
・教委は教育行政の重要事項・基本方針を決定、教育長が具体事務を執行
・戦後、教委制度は地域の身近な行政機関として定着、諸外国から高評価、逆にその役割を十分に果たしていないとの指摘も

2.教育委員会制度に対する批判

・教委制度には「地方分権」「規制改革」の観点から批判が噴出
・具体的には「教委は事務局提出案を追認するのみで実質的意思決定を実施せず」、「地域住民の意向を十分に反映していない」、「国や都道府県の示す方向性に沿うことに集中し、地域の実情に応じた施策を行う志向が必ずしも強くない」などの問題点が指摘
・このため、教育行政は教委ではなく、地域住民の声に敏感な市町村長が直接行った方がよいという主張もある
・現在、教委は全地方公共団体に「必置規制」があるが、これを緩和して教委設置を選択制にすべき
・しかし、教育の政治的中立性、継続性・安定性の確保する必要あり
・教委の設置により、個人の独断や恣意の介入を防御し、知事又は市町村長の属する党派の影響力から中立性を確保可能
・教育は長期計画の下に一貫した方針で行われるべきものだが、現行制度では、教育委員が一度に交代しないよう毎年一部ずつ改任、教育行政の継続性・安定性を確保。
・教委制度が、教育論以外の観点から疑問を投げかけられている。
・この状況に加え、いじめや未履修の問題に対し、一部の教委での不適切な対応から国民的議論化

3.教育委員会の充実・強化と今回の法改正

・言うまでもないが、全教委が機能不全に陥っているわけではない
・多くの教委では、地域の教育行政のために献身的な努力を行っているが、一部の問題が教育行政全体に対し信頼を損なうおそれもある
・教育の政治的中立性や継続性・安定性を維持しつつ、上記のような様々な批判に対応するために、教委制度維持の上で、その体制の充実・強化を図ることが必要
・以上の点から内閣は地教行法改正案を国会に提出し、6月20日法律成立、6月27日に公布

内容の概要は以下。

(1)教育委員会の責任体制の明確化

・地方教育行政の基本理念を明記。
・合議制の教委は、1.基本的な方針の策定、2.教委規則の制定・改廃、3.教育機関の設置・廃止、4.職員の人事、5.活動の点検・評価、6.予算等に関する意見の申し出、については自ら管理執行することを規定。
・教委は学識経験者の知見を活用、活動状況の点検・評価を行う

(2)教育委員会の体制の充実

・市町村は近隣市町村と協力、教委共同設置等の連携を進め教育行政の体制の整備・充実に努める
・市町村教委は指導主事を置くように努める
・教育委員の責務を明確化、国・都道府県が教育委員の研修等を進める

(3)教育における地方分権の推進

・教育委員の数を弾力化し、教育委員への保護者の選任を義務化
・文化・スポーツの事務を首長が担当可能にする
・県費負担教職員の同一市町村内の転任については、市町村教育委員会の内申に基づき、都道府県教育委員会が実施 

(4)教育における国の責任の果たし方

・教育委員会の法令違反や怠りによって、緊急に生徒等の生命・身体を保護する必要が生じ、他の措置によってはその是正を図ることが困難な場合、文部科学大臣は是正・改善の「指示」ができる旨を規定。
・教育委員会の法令違反や怠りによって、生徒等の教育を受ける権利が侵害されていることが明らかである場合、文部科学大臣は、講ずべき措置の内容を示して、地方自治法の「是正の要求」を行う旨を規定。
・上記の「指示」や「是正の要求」を行った場合、文部科学大臣は、当該地方公共団体の長及び議会に対してその旨を通知。

(5)私立学校に関する教育行政

・知事は、私立学校に関する事務について、必要と認めるときは、教育委員会に対し、学校教育に関する専門的事項について助言・援助を求めることができる旨を規定。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

July 25, 2007

学校選択論によせて。

日本の教育行政学の大家である黒崎勲氏の著書『教育の政治経済学(増補版)』(同時代社、2006)を何度目か再読しました。

今まで私は頑なに学校選択制なるものに反対だったわけですが、私立上位校と呼ばれる学校の教員をやってみて、改めて公立校の教員のレベルと体質を認識してからこの著作を読むと、筆者の「学校や教師の自発性を基本としつつ、教育委員会が自発的に学校改革を行うひとつの方法」としての学校選択制は悪くないのかも、と思うようになりました。

ただ、改革と銘打つ上で圧倒的に足りないものが二つあります。

ひとつは教員の立場に立った考察がほとんどないこと。選択制下でのプレッシャーはまったく考慮されていません。もう一つは、地域の権力構造の介入を招きかねないことです。
突っ込んだ補足は割愛しますが、原因は明らかにアプローチの仕方にあり、黒崎氏が教育学の立場から主張しているため、改革に必要な諸要素を包摂できていないことです。この点では社会科学として教育科学を論じる教育社会学者・藤田英典氏の主張の方が改革を論ずる上ではアプローチとしては適当かと思いました。もっとも藤田氏への黒崎氏の批判は妥当であり、二人の理論を超える新たな理論枠組みが必要だとも思います。

ともかく、もう少し教員に力点を置いた研究が必要です。改革の担い手は教委ではなく、なにより教員なんですから。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 14, 2007

『チルドレン』

頭痛がしながらも朝いちで借りてたDVDの一枚を視聴。

『チルドレン』
http://www.wowow.co.jp/dramaw/children/

家裁調査官役の坂口憲二が主演、そしてその同僚役として大森南朋(なお、って読むのさ)がツートップを張ってます。生真面目だけど子どもにはコケにされてしまう坂口に対し、不真面目ではっちゃけてるけど予期せぬ方法で子どもの心を開く力を持つ大森。大森南朋はNHKドラマ『ハゲタカ』でハゲタカファンド社長の鷲津役をやってた人ですね。(・・ってこれを知ってる人はほとんどいないだろうけど^^)
さらに小西真奈美が高校生時代に暗い過去を持つ本屋の女性店員役として出演し、若手の名優が脇を固めている秀作でした。

「家裁調査官は法律という名の拳銃を持った牧師なんだ!」

・・というのが、この作品を紹介するサイトに必ず載っている“名言”らしく、本編でもこの言葉を坂口憲二が「先輩から言われた言葉」として語るんだけど、個人的にこんな狙い過ぎたセリフはあまり好きではないので、以下、記憶に残った言葉を。

「子どもは英語でチャイルド。でも複数形にするとチャイルズではなくチルドレンになる。つまり、別物になるってことだ」

「一人だとなんでもない子がみんなと一緒になると全く別物になってしまう」

・・なるほど。たしかにね。深い。

あと、大森南朋が「犯罪少年はゴミ以下だ」と酒を飲んでくだを巻く飲みリーマンにからんでいく言葉より。

「犯罪を犯した子どもを更正させること、それはまずムリだよ。年中子どもと向き合ってる俺たちが言うんだから間違いない。更正なんてキセキだ。でもな、この仕事はキセキを起こせるんだよ。いや、起こすんだ。お前らの仕事はそういうキセキを起こせるのか?」

・・こうやって現実をちゃんと見据えながら、それでも希望を捨ててない姿、って大好きですね。

ということで、作品自体はもうちょっと、と思いながらも家裁調査官を扱ったあまり今までになかった秀作を見た気がしました。教育系のお仕事をされている方にはとくに一度見ておいて損はないドラマです。オススメです。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

March 02, 2007

学歴差別。

ネットサーフィンしていて見つけた「学歴差別」に関する記事から。

今回は「学歴差別」の実態についてレポートしよう。

 最近では、新卒採用において、エントリーシートなどに学校名を記入しない採用を行う会社が増加している。リクルートの調査によるとその割合は実に4割にも達している。一方、いまだに学生から「自分は○×大学なのですが、門前払いされたりしないのでしょうか?」、「学歴差別は、実際のところあるのですか?」などの相談を受けることも多々ある。

 実際はどうなのか?  結論から言うと、「学歴差別」は現在も強烈に存在している。今回は、人事仲間から聞こえてきた情報を元に、学歴差別に関する実態をレポートする。

 某大手保険会社の総合職採用は、明確に学校差別を行っていることで有名だ。名目上は自由応募になってはいるが、選考の際には学校名による選別を行っている。採用基準に当てはまらない学校名のエントリーシートはすべてダンボール箱ごと処分している(もちろん、個人情報管理の関係で、期間をおいて処分するルールではあるのだが)。表向きのオープンなスタンスは名ばかりというわけだ。ちなみに、学歴差別は企業イメージ、採用スタンスとは全く関係なく、一見善良そうな企業が行っているから注意が必要だ。例えば教育関連の出版社、人材ビジネスなどは、企業メッセージとは裏腹に、学歴差別の常習犯だ。

 学校差別採用は当然、行っていることがわかると槍玉に挙げられるので、それをカモフラージュする手段を用意することもポイントのようだ。エントリーシートの選考や面接とセットで、SPIなどを実施する企業も多数ある。「面接やエントリーシート、SPIなどで総合的に判断します」など、もっともらしい答えをしている。実際には、SPIの点数を全く考慮していないケースや、相当のSPI上位者以外は大学名で切り捨てているケースも多々あるわけだ。

 また、学歴差別採用は日本の大企業だけでなく、実は外資系企業の方が顕著である。外資系企業は人事スタッフが少ないケースも多く、採用活動に手間暇をかけられない実情がある。そのため、学校名による選別を初期段階で行うことにより、採用効率を高めている。さらには、日本国内での他社とのリレーションを強化するべく、上位校の中でも学校を選ぶ傾向さえある。ある外資系の医療機器メーカーは「必ず、慶応と一橋からは内定者を出すように」という指示が飛んでいるケースがある。なぜ、慶応と一橋かというと、OBが経済界の要人に多数いるからである。

 一方、学歴不問採用を行っていても、結果的に上位校に内定が集中しているケースもある。1990年代後半にトヨタやソニーは学校名を書かないエントリーシートを導入し話題になったが、ふたを開けてみると、結果として上位校だらけだったという。学校名不問にし、門戸を開いても結果として残ったのは上位校だったというわけだ。

私の勤めていた会社もオープン採用とやらでしたが、ふたを開けてみると全体が700人採用の会社で、早稲田の同期が75人もいましたし。このことをアカデミックに分析しているのが京大の教育社会学者である竹内洋の『日本のメリトクラシー』という文献(名著です)。この著作の中での指摘として、人事部は「なぜこの人を採用したのか」という理由付けを会社に説明する必要があるなかで、これまでの経験則から「学歴が高さ」と「ポテンシャルの高さ」にある程度相関関係がみられることを認知していることに触れ、採用に関して、やはり有名大学の人間を取ることが会社の繁栄につながるという神話がいつまでも保持されていることを指摘しています。この結果として、「学歴不問」の社会一般に広がる風潮・お題目から従来よりも採用する大学のパイは増やしつつも、ふたを開けてみると従来のとおり、特定大学の学生がより多く採用されているという現実につながっていきます。これに対しては「悪」だと一方的に決め付けられないし、価値判断は難しいですね。新卒を採用するに当たって、これまでのポテンシャルとの相関が見られるという学歴(正確には学校歴)に変わる要素が見つかれば、学歴重視の指標からからシフトしていくのでしょうが。。果たしてどんなものを見ればいいのやら。

状況は昔も今も変わらないですね。やはり。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 15, 2007

文科省の「現場」出向。

標題の件について、毎日新聞と朝日新聞の記事より。

<文部科学省>学校に若手キャリア出向 現場実態把握のため> (毎日新聞2月15日)

文部科学省は、4月から若手キャリア数人を公立中学校などの学校現場に出向させる方針を固めた。これまで、教育委員会などへの出向はあったものの、学校現場への出向は初めて。出向は1年間で、年3人程度を事務職員として勤務させる見通し。

 文科省キャリアは教育行政を預かる立場でありながら、「学校現場の実態を知らない」と批判されることがあり、同省内部からも学校現場への出向を求める声が出ていた。このため、同省は若手キャリアに現場の実態を把握させることにした。

<文科省、若手職員に「教員修業」 地方の学校へ派遣> (朝日新聞2月16日)

 学校現場の状況を知ってもらおうと、文部科学省は教員免許を持っている職員を教員として地方都市の公立中学校などに派遣し、研修させる方針を固めた。若手職員を対象に人選を始めており、4月から1年間の予定で2、3人を出すという。

 これまで文科省は、教育行政の体験を積ませるために、入省8~9年目の職員らを中心に、県教委の課長職などに2、3年間出向させてきた。その後、一部の県や指定市の教育委員会の教育長として出向させる例もある。また、入省2年目の職員はキャリア採用者を中心に1カ月程度、市教委で研修をさせてきた。

 教育委員会の職員には教員免許を持ち、学校で教えてきた経験者が多く、文科省側は「教育委員会での勤務で学校現場の知識を得てきた」などと自己評価してきた。だが、「教育行政を担っているのに学校を直接知らないのはおかしい」との批判も根強かった。

 文科省には毎年、教員免許を持つ職員が数人、入省している。当面は、これらの職員を対象とするが、将来的には、大学で教員免許を取得していなくても、都道府県教委の判断で一時的に交付できる「特別免許状」の制度の活用なども考えたい、という。

 派遣先は検討中だが、受け入れる側の事情も考慮して、担任は持たせず、副担任などの立場で指導にあたらせる考えだ。

やっとか・・と言う感想ですね。文科省自身については、教育行政学者(あるいは教育社会学者)である市川昭午先生が指摘しているように、1980年代、とくに臨教審の頃から世の中が教育において「消費者化」しているなかで、文科省自身もその「消費者寄り」の政策形成を模索し始めたと言われていて、政治勢力でも社会党など革新勢力が小選挙区制導入以後、「壊滅」している状況からも、現場の声を政策的に拾うことができにくくなっている現状にあっては、文科省こそ現場に寄り添わなければならないことは明らかなわけで。

この動きはぜひ評価したいです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 21, 2007

気になる言葉。

昨日は久々の菊Tゼミ飲みでした。

なかなか会えそで会えないメンバーといろいろ話せてほんと楽しかったです^^
できれば来れなかった人にも会いたかったけど、それはまた後日、ですな。

・・で、話題がガラリと変わるけど、この席で聞いてかなり気になったこと。

同期の某女性に教えてもらったけど、この夏休みに集団で塾講師をしたときに、中2女子からけっこう「うざい」「きもい」を連発されて、いまどきの先生の大変さを肌で感じた次第なんですが(まあ逆にそういう言葉を連発せざるを得ないあいつらのストレス状況を心配してるんだが)、そのなかで同じくらい何度も「ガイジ」「ガイジ」「絶対こいつガイジだよ」と言われたのね、自分。

はて?ガイジン(外人)のことかな?と思ってさして気にせず流してたけど、実はこれ、「障害児」のことなんだってね。昨日聞いて初めて知った。多少調べてみたけど、どうやら今どきの中高生の間で流行ってるスラングらしい。

「(自分からみて)おかしい奴=障害児」って発想か?
その発想自体がおかしいわ。「うざい」「きもい」なら気持ちだけでクローズしてるからまだいいけど、なんでそれが障害児と結びつくか全然わからん。

その言葉だけはやめろと言わなきゃダメだったな・・。いまさらだけど反省です。とくに中高生を見ているひとは、こんなところに気をつけて欲しいと思います。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

January 20, 2007

教育再生会議の七提言。

教育再生会議による教育見直し七提言。書いてみます。

①ゆとり教育を見直し、学力を向上する
 (基礎学力強化プログラム、習熟度別指導の拡充、地域に応じた学校選択制の導入)

②学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする
(出席停止制度活用等)

③すべての子どもに規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する
(道徳の時間の確保、高校での奉仕活動の必修化、大学9月入学の普及促進)

④あらゆる手だてを動員し、魅力的で尊敬できる先生を育てる
(多分野からの人材登用、給与制度改革、不適格教員の排除)

⑤保護者や地域の信頼に応える学校にする
(教育水準保障機関による外部評価・監査システム、副校長・主幹等の新設、民間人校長)

⑥教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す
(教職員人事権の教委から市町村への委譲、外部評価制度導入)

⑦社会総がかりで子どもの教育にあたる
(地域リーダー(教育コーディネーター)の育成)


・・どれも最近の教育政策動向を取り入れたものですが。

個人的には、①で完全に自由な「学校選択制」が行われるのは安全な生活を送るための地域連携の基盤を壊すものとして教育より生活が壊れるから大反対だし、③の「奉仕活動の義務化」は実態的に総合的な学習の時間等でやられていることが多いし、この奉仕活動は「経験すること」が第一義なのだから「必修化」する必要はないと思うし。

それにもまして恐いのが⑥の人事権を市町村が握るという点で、市町村なんて地域ボス(地元の名士)が政治の実権を握っているのが実情だから、一部のそういう人たちの意向がまちがいなく教員人事にふりかかることになる。「地方自治」やら建前はきれいだけど、フタを開ければ金と権力にまみれたドロドロの政治構造なんだから、人事権だけは文科省-教委ラインの行政主導でないとおかしなことになると思われます。

あと⑦で社会で総がかり、とは言っているけど、時代の流れには逆行していて「教育コーディネーター」等を置いても彼らが頼られる存在にならなければ意味はないし、残念ながらそもそも認知されそうにないのが本当のところだと思われます。

・・ところで、なんで「家庭」への提言はないんだろう?
家庭問題を抜きにして教育問題を語るなかれ、だと思うんですが。

(いろいろな要素はあるけど)少子化といい、この家庭の教育といい、世の中子どもに関わる風潮なり文化が大事にされていない時代なんだろな・・

そして、自分の修論とも絡むけど、これらの提言は実現される可能性が高い。もっともっと議論すべきなのに政治構造的にこれに物を言える機関がないし、きっとそのまま政策形成されてまうと思われる。それこそがほんとに由々しき問題・・

| | Comments (0) | TrackBack (0)

December 11, 2006

コミュニティスクールを考える。

先日、こちらも後輩からの案内があって、文科省主催のコミュニティースクール推進フォーラムに参加してきました。会場は、私が若かりし頃(ってか二年前だけど^^)お客さん相手にマジで駆けずり回ったビルの隣の講堂。お客さんに会ったら「ご無沙汰しております」と挨拶せにゃならん環境で、ヒヤヒヤもんでした。

・・話を戻すと、コミュニティースクールとは「地域に開かれた学校」ということで、今まで学校運営が校長以下、教員中心に、あとPTAが絡んで行われていたところに、もっとその地域の住民を学校運営に参画させようと、「学校運営協議会」を設けてそこを意思決定機関にしようとするものです。言葉が若干足りない気もしますが、ひらたくいえば、このような感じ。

で、私は今までこれに以下の三点でものすごく批判的でした。最近の消費者化して利己主義的な親が増えるなかで、学校運営がうまくいくのか、というのが第一の点で、また学校の先生にこれ以上負担をかけるな、というのが第二の点、そして、そこに参加できる人は時間的に経済的に余裕のある「地域ボス」であり、その裏に必ず「政治」が見えるわけだから、結果的に「政治」に絡みとられるのではないかという危惧が第三の点です。ただ現状をあまり知らないで想像でものを言っている部分が多いので、そこらへんをしっかりと埋めるべくフォーラムに参加した次第です。

で、基調講演は学芸大の葉養(はよう)先生で、このコミュニティスクール等の研究では非常に有名な方。その前にも文科官僚が行政説明としてこのコミュニティスクールについて解説をしていましたが、以下の点で私の不安はそれほど問題ではないということがわかりました。

多くの学校が、現あるいは元PTA会長だったり、民生委員だったり、補導員だったりと、肩書きを持つ人を多く協議会員にして彼ら・彼女らを中心に運営していることです。つまり、一般の保護者はもちろん参加しているものの、「執行部」は教育をわりと公共的な観点で考えられる(ことができると思われる)役職者で占められ、個別の要求で協議会が動揺することはそれほどなさそうだということです。また、もし議論が紛糾しすぎて本来の役割を全うできなくなったときには、教育委員会が解散できるという権限を持っているそうな。

で、葉養先生の分析によると、現在協議会には2つの型があり、ひとつは「校長支援型」、もうひとつは「自立志向型」だそうです。前者は文字通り校長を支援するような協議会で、後者は学校の運営主体として学校の方向性をときに激しく議論しあうような協議会。現在は前者は8割から9割を占めるとのこと。

私は「校長支援型」が学校の先生の専門職性を生かす道としてベストだと考えます。というのは、そもそも協議会をやることで校長は自分が何をすべきかを明確化する必要があるという点と、それにより学校内部で専門職として高めあっていこうとする動きが支援されるという点からです。逆にいえば、「自立支援型」は学校内部での高めあいを強制的にやらせる可能性があるということでやや行きすぎかと考えます。実践報告例として足立区の五反野小学校の報告を聞きましたが、これは後者の例で、校長まで挿げ替えて改革をやっていましたが、授業診断で保護者による授業評価がされ結果を実名で公表するなど、いい面もあるけどやややりすぎな部分も感じましたね。

総じて、葉養先生もおっしゃっていましたが、まず学校とその周辺の地域に「社会関係資本」(人的ネットワーク的なもの)があるかないかというのが、このコミュニティスクールを成功させる秘訣でそうです。また社会関係資本があっても、親の参加を強制したりなど、運営的に保護者の視点を反映させていることが重要とのこと。

学校の新しい可能性を探る意味で、ただ批判するのではなく、いかにいい運用の仕方を考えることができるか、というのがこの学校運営協議会の成否のカギだと感じました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

教育基本法改正を考える。

日本で一番加入者が多いらしい某SNSの中の某コミュニティのトピックで「教育基本法改正について」の議論が起こっていたので、私も飛びこんでみました。以下の私の意見を貼り付けます。

私の総論は「賛成」です。それは、「愛国心」など中心的に議論が起こった箇所以外にあまり目を向けられていませんが、たとえば身障者や生涯教育への視野がつけ加えらるなど、今の時代に応じた教育を全体的に捉えなおしていることがあげられます。これは絶対に評価されるべきです。

また、あくまで「基本法」であるという性質から、「愛国心」に関するような「心」に介入する文言があったとしても、今後それをもとに教育内容を強制したり、誰かを糾弾したり、ということは考えにくいためです。(というより改正前の時点ですでに「愛国心の評価」は福岡県等でやられているし、基本法が改正されたからといって新たに他県の多くが急にやり始めるものではないと考えます。ただ、私はこの条項に関してはあくまで「いれるべきものではない」という立場です。)

また、昨今の右傾化が指摘される世の中では、この改正でも「生温い」と感じている人も多くいて、結局安部政権の支持率から見ても、世論(せろん)は改正派が多いものと思われます。民主主義の観点から言えば、十分改正は妥当だともいえます。(この点、世論を至上とする「民主主義」に私は非常に懐疑的ですが)

で、話を脇道に反らせますが、戦前の大日本帝国憲法下でなぜ軍部の暴走が始まりあそこまで大きな戦争になって国民が苦しむことになったかといえば、(この教基法の問題に引き寄せていうなら)憲法の条文に天皇の「統帥権」が記載され、かつときの政権を攻撃するために政治側自らが「統帥権干犯」を言い出したことに端を発しています。その後、軍部がこの言葉を使い始めることで、誰も「皇軍」のブレーキをかけることができずにマスコミも流されるままズルズルいってしまった。

私の判断基準は、この「統帥権」にあたるような、これを言い出したら誰も抗えず、明らかな不利益を被ると予測される文言があるかどうか、という基準で教基法を見て結論を述べたつもりです。そして冒頭に述べたように、あくまで「教育基本法」であり、かつ「統帥権」のような危険な文言が見えないことから、教育全体を見直した基本法令として「賛成」だと考えるものです。あとは、そもそもが教育の基本法だから、現代という時代に応じた教育とその理念が書かれていること、というのが判断すべき点だと思っています。

最後に、どこからが「危険」か、というお話がありましたが、教基法をもとにして「憲法」とくに「9条」に触れたときは間違いなく「危険」ですし、教育基本法の中でも、明らかに教師を厳しく管理監督する規定が盛り込まれるならそれが「危険」ものだと捉えます。この点、今回の改正案はこれにあてはまるものがない、と判断して、積極的ではないけれども「賛成」だと考えています。

ついでに、この教育基本法の改正の話題から派生して中央(政府とか文科省とか)における国旗国歌法案と「強制」の問題も議論が出てきたので、それに対する私の意見も合わせて・・

国旗国歌法自身は、ただ「国旗は日の丸とする、国歌は君が代とする」ということだけを定めたものです。だからこの法律自身は強制力を持ちません。政府見解も文科省の通達も強制はしないことを述べています。昨今の文部大臣(中山、小坂、伊吹)は「遺憾である」とは言っていますが、文科省自身の見解は強制せず、です。

もっと深層(あるいは真相)をたどると、現場への強制圧力をかけているのは都道府県レベルの教育委員会です。東京は良い例ですね。地方はかなり自民党県議が多く、一部の強烈な保守派である民主党県議も加えれば、地方は保守派の塊だといえます。マスコミの目もあまり地方には行かないし、そういう土壌の中で、役所でも彼らの息のかかった教育長が日の丸・君が代を実質的に強制する環境を整えようとするのは悲しいかな、地方分権の流れで起こっているのが現状だと思われます。ちょっと単純に書きすぎている部分もありますが・・

現場レベルでのこれらの強制を考えるのであれば、中央政府や文科省というより、とくに県レベルの地方議会および教育委員会の構造などを考えた方が中央の「精神」をうんぬんするような議論をするよりはるかに有益だと思われます。

・・という感じです。私は文科省と、そして何より現場の先生方を支持しています。教育委員会を取り巻く(とくに教育長をとりまく)政治関係こそもっとクローズアップせにゃあかん問題だと思っています。

| | Comments (1) | TrackBack (1)

November 02, 2006

新任女性教員の自殺に思う。

東京都新宿区立小学校に今春から勤務していた新任の女性教師(当時23歳)が5月下旬に自殺した事件について。以下、ニュースの記事から引用します。

「先生になることを夢見て努力してきた娘が、2か月後になぜ、自らを『無能』と断じて命を絶たなければならなかったのでしょう」。新宿区立小学校に今年春から勤務していた女性教師が自殺した問題で、公務災害の申請に踏み切った両親は24日、悲痛な思いをコメントにつづった。不安を胸に教壇に立つ新任教師を、どう支え、育てていくのか。娘の死を無駄にしないためにも、再発防止策の確立を両親は求めている。

 記者会見した代理人の川人博弁護士によると、同校は1学年が1クラスしかない「単級学校」で、2年生の担任になった女性教師には同じ学年に相談できる教師がいなかった。また、今春、同校の教師10人のうち5人が異動してしまい、地域や家庭の状況を把握している教師が少なかった。

両親の代理人弁護士によると、この教師は4月、2年生の担任になった。保護者と交換する連絡帳の中で、宿題の出し方が安定しない、子どものけんかで授業がつぶれるなどと指摘されるようになり、5月には、人生経験の少なさも批判され、保護者と交換する連絡帳に、女性教師の指導に疑問を示す書き込みがされるようになった。このため5月22日、校長に初めて相談。保護者と電話で話すよう指示を受けたが、時間外労働も加わり、過度のストレスを感じていた。

女性教師は5月下旬に自殺を図って未遂に終わり、精神科の診察を受けたものの、数日後に自殺。「無責任な私をお許し下さい。全て私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい」とノートに書き残した。自宅に持ち帰った仕事も含めると、1か月当たり100時間以上の時間外労働をしていたという。弁護士は「保護者からのクレームなどで精神的に追いつめられ、学校の支援も不足していた」としている。

女性教師の両親は弁護士に託したコメントの中で、「娘は、大学生になった時から先生になることを夢見て努力をしてきました。採用試験に合格した時には、本人も周囲も大喜びをしました」「彼女が最期まで逃げずに職を全うしようとしたから倒れたのだということを証明してあげたい。幾多の若い人材が2度と娘と同じ道を歩むことのないことを切に望んでいます」などとつづっている。

う~ん、痛ましい事件ですね。自殺を回避する方法はあったろうに・・。

今回の問題を3つの角度から見てみます。

①教師の資質

教育学部系(とくに国立の教員養成系学部出身者、要は言葉は悪いですが「純粋培養」された人)の出身者に多くあてはまるけど、理想と現実のギャップにさいなまれて悩む人が実際に多い。最初は燃えてるんだけど、厳しい現実に直面して、いわゆる「バーンアウト」してしまうんですね。多少おおらかさが必要なんだけど、全部自分のせいだってことになっちゃう。この方が国立教員養成系出身かはわからないけど、責任を全部自分に背負い込むことが多かったのでは。もっと上司に相談できなかったのか、というところが気になります。ただ、いまの教員は36%が「抑うつ症」だという新聞記事もありましたし、そういう状態が進めば、誰かと口を聞いたり接触したりするのも億劫になるから、口では簡単に言えるんだけど、現実的に難しい部分がありますね。彼女の場合、新任だから「休職」という手は取り辛かったでしょうし・・。やっぱりそこまでになる前に、上司をうまく 巻き込む必要があったと思います。

②学校体制

学校長、つまり校長や教頭も、相談するべきことは相談しなさいというスタンスでいないと①を助長しかねないですよね。大学院で私と同じ授業に出ている元校長は「親からクレームが来たら全部私に話をもってきなさい」という話を教員にして、いわゆる「上司」として親との対応にあたったとのことです。なぜこうしたかというと、担任だけが表に立つより校長も一緒に出てきたほうが、明らかに親側もすぐに納得するんだそうです。たしかに上の人が出てきたら、組織的に対応しています、という意思表示にもなりますしね。学校でこういうサポート体制は取れなかったのか。少なくともなぜこの学校の校長は教師本人に父兄にむけて電話をさせたのか。どうすれば円満に解決できるかを見誤ってしまったように思えます。

③親

そしていま教員を一番悩ましているのが親。今回は直接的原因になりました。「自分の子どもさえよければ・・」というのは『女王の教室』でも描かれてましたね。本来家庭の教育がベースにあってその上での学校なはずなのに、責任を学校に押し付けている部分が、正直多いと思われます。マスコミも学校の先生の不始末を取り上げて叩くことばかりしているからね。ここは先生の能力をどうこういうより、まずは自分を省みないといけないと思われます。

不景気のストレス社会で立場の弱い教員はどうしても社会から、そして親から虐げられる傾向にあり、また学校側もいまや「消費者」と化した親を中心とした地域社会に対応するために話し合いの場などを設けるなど、現場を見ると非常に多忙を極めてます。さらに相次ぐ教育改革は更なる多忙感を助長させ、いっそうの負担感を与えています。現場を知ろうとする視点でものを考えないと今後もこういう悲劇が起きてくるんじゃないでしょうか。

非常に不安です。

追記ですが、昔はイデオロギッシュでも現場には日教組なり、中央には社会党とかいて「代弁」する役割を担われていたんだろうけど・・ずっと個人的には無力だと思っていましたが、これらの勢力の価値の必要性を感じています。個人的に自民党・文教族議員にはこの点を期待しているんですけどね。でも、いわゆる新文教族やネオ文教族はこういう価値には目を向けてないからなぁ。。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

July 30, 2006

『なぜ公立高校はダメになったのか』

キャッチーなタイトルですが、そのインパクトの強さもあり、改めて「大都市圏」における公立高校凋落の原因を押さえておきたく、小川洋さんが書いた同名の本を読みました。アカデミック過ぎず、読みやすい本です。

あらかじめ触れますが、ここでいう「ダメ」とか「凋落」というのは、主に「有名大学への進学実績」が低落したことで他の私立高校に流れて人気が落ちてしまったこと」を指しています。決して公立学校の学校教育が失敗しているという意図はありません。言い換えれば、この「ダメ」「凋落」という事態が、教育内容よりも、それをとりまく社会環境に起因したものである、ということをこの本は述べています。

要旨をおおまかにまとめると以下のとおり。

・高度経済成長期(1960~1970年)において、大都市圏における二つの大きな階層(都市出身者中心の安定したホワイトカラーに就く新興中間層/農村出身者で安価な若年労働力として集団就職などのかたちで都市に吸引された層)が形成されていく。

・都市部では急激に人口が増加し、学校新設を迫られる。その際、私大は進学気運の上昇を受け激増していったものの、高校以下の学校には、予想される高校生人口の減少が考慮されたこともあって私学の参入は少なく、結果的に公立高校がこれを引き受け「持たざる」農村出身階層の数多くの子どもたちの受け皿となった。

・それまで高校は公立高校が優位にあり、私立がそこに入れなかった生徒を受け入れるという「秩序」があったが、この新設高校の序列は伝統的な公立高校に比べて下位に置かれることになる。また地方出身者が都市での生活や周囲との環境になじめないことで家庭でのストレスが子どもに悪い影響を与えたり、大都市近郊を中心に家庭環境の異なる個子どもたちが混在することにより、校内暴力事件などの中学校の「荒れ」など数多くの問題が引き起こされた。

・この結果、進学を控える家庭からはこれらの公立学校は敬遠され、既存の伝統的公立学校や私学への進学をより強く希望するようになっていく。また私学も、高校・併設中学校との6年間のカリキュラムを5年で修了し残りの1年を大学受験対策に当てるなどの進学重視のカリキュラムが組まれ、進学実績を確実にあげていく。

・とくに首都圏ではかつての伝統的公立高校より進学実績が抜きんでる私学が生まれ、公立と私立の序列が逆転するようになった。最たる例が東京都で、「学校群制度」導入はますます生徒を私学に向けさせることになり、その凋落は著しかった。

公立学校の凋落の原因はきわめて社会的な要因があったこと、またその直接の根は高度経済成長にあったことがわかります。

最近はちょっと事情が変わってきて、公立高校の「復調」がなされています。その要因として、文科省主導で「スーパーサイエンスハイスクール」などを設定し特定高校に特別なカリキュラムを敷いたり、教育行政に縛られて画一的な指導が中心だったところをかなりてこ入れしたこともあります。でもよく考えるとこの不景気が従来であれば私学に流れたであろう生徒を公立に呼び戻した、と考えるほうが妥当だと思われます。それでも公立高校からでも東大に進めるという実績は、たとえ不景気が直接的な原因だとしても今後の公立高校進学へのアスピレーションになる。階層分化の激しいこの平成の世の中、非富裕層が有名大学に進学できる道を築くのには重要な意義があると思います。公立の「凋落」について上に書きましたが、「復権」も始まっているのが現在の状況でしょう。

単純化して書いていますが、今回は以上で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 08, 2006

夜回り先生の言葉より。

「夜回り先生」こと水谷修さんが少し前にテレビで語っていました。その中で心に残ったものを(自分でも忘れないように)まとめてみました。

○教育病理

不景気により父が会社でストレスを溜め、家庭で不満をぶちまけ、母が子どもにつらくあたってしまうという社会的背景のため、そして学校でも教師に成績でおいたてられてしまうという背景があるために・・

いまの子どもが陥りやすい3つの方向性

①自分が受けたストレスを弱いものに向ける(いじめ)
②やさしい子は外に暴力が振るえず閉じこもる(引きこもり)
③もっと優しい子は我慢して我慢して、そして自分を傷つける(リストカット)

○リストカット

初めて文献に登場してくるのは1950年代のアメリカ。時代背景はWWⅡにおける戦争バブルが崩壊したあたりであり、やはり失業など社会不安が広がった時期だということ。日本で考えればまさにバブルが崩壊したこの10数年で爆発的にリストカッターが増えてきているそうだ。(具体的には学校で最低一人はいるほどにもなるらしい)

○求められる対応

司会者である国分太一に問いかけ。

「国分さんがドラックをやることはないでしょう?」「ないですね」「それはドラッグをやることによって失うものがあまりに多いからです。そしてそれをちゃんとわかっているからです」「いまの子どもには失うものがない」「だからドラックに手を出すんです」

「・・まず褒めてあげることです」「褒めて、失っては困るものをちゃんと作ってあげることです」

水谷氏が述べた「子どもの病理に関する原因」「対策」とも、教育学を学ぶ者にとってはよく聞く馴染みの深いものだと思いますが、自ら具体的に生徒さんを見てきた水谷氏が語ると、ぐっと引き込まれてしまいました。エイズを伝染されて、その恨みを晴らすにはあまりに未熟にも誰彼かまわず広めようとした「アイ」の話など、誇張が入っているとはいえ、非常に考えさせるものでした。

・・・

こういう問題を追っていくと、少年が犯罪を犯すたびに政治家がよく言うような「道徳がないから教育が乱れて犯罪が起こるんだ」という言説、そしてこれの延長にある「愛国心を教育基本法に盛り込むべきだ」という言説は、はたして子どもの実際の「教育」においてどんな意味を持っているんでしょうね。たしかにまったくの誤りではないでしょう。道徳が磨かれればなんらかの改善はあるかもしれない。でも、あくまでそれは直接の原因を解決・改善するものでないので微々たる効果にしかあげられないと思われます。

奈良の東大寺学園の生徒の放火事件も、少し前の同志社の学生の殺人事件も、昨日の阪大の学生の殺人事件も、親が過度なプレッシャーを与え続けたが故に緊張から逃れたくて起こってしまった事件であろうと推測されます。そして彼らと同じように緊張状態におかれた生徒や学生はこの少子化の不景気のご時勢の下にごまんといるはず・・今後も確実にそういう事件はおき続けるでしょうね。言いたいのは、緊張状態の彼らの前で道徳を説いたところで、きっとなしのつぶてであろうということです。そもそも彼らはそんな道徳なんてわかっているのだから。それでも感情が道徳を乗り越えてしまうところに現代の教育における病理の深さが見える気がします。

根本的な解決をはかるには、上記の水谷氏の話から取り出すなら、子どもをとりまく大人の「環境」を変えるところからはじめなければならない。ただ、仕事がうまくいかないストレスは残念ながら解消することは難しくそれぞれに複雑な事情があるわけでまず不可能でしょう。となれば、負の感情の捌け口を子どもにしないようにすればいい。これが如何に子どもに負の影響を与えるかを知り、どうにか子どもを「守る」方向に意識を向ける、ことが出発点になるかと思います。

学校においても、「教育委員会→校長→教員」というマクロのルートと「親→教員」というミクロのルートによって教員がますます締め付けられて、これが子どもの締め付けにもつながる部分は、水谷氏の指摘のとおりあるかもしれません。丸山真男風に言えば「抑圧の移譲」というやつですかね。もしかして、それから逃れようとして一般的には「変質者」を思わせるような卑猥な行動に走る教員がでているのかもしれません。このとき、文部省というよりはむしろ教育委員会が自発的に学校を締め付けている傾向が強いわけですが・・。

近年は、教育実習の箇所でも触れましたが、保護者が片親であったり、外国籍で言葉が十分でないなど、子どもにとって望ましい家庭環境でないことが多いです。この現状は、ますます担任の先生の生徒の教育に対する責任を重くしています。だからこそ、もっと教員が子どもと触れ合って人格を磨き上げるという学校における「本来の仕事」をなすべき時間や体制を確保する政策がなされることこそ重要だと思われます。それなのに・・愛国心とか学校運営評議会とか、ねぇ。どうも筋違いじゃない?

・・どうも書いていて、理想論ばかりを述べている自分にも自分自身で疑義の目を向けなければならないですが、それにしても現在の教育改革の流れが現在の課題を解決するためになされているというよりか、ひどく政治的思惑をもってなされているのを忌々しく思います。これを推進しているのがわれわれの代表として選ばれている国会議員であるなら、果たして従来どおりの民主主義での決定がそのまま意味のある政策につながっていくのか。このあたりから問われなければならないのでは?と考えます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 26, 2006

地方分権、反対派。

大学の検索システムを使って新聞で「文教族」を検索したところ、朝日318件、日経219件ヒット。そこでwebからwordにコピペしてひたすら読んでたのですが・・日経のここ数年の記事(とくに義務教育費国庫負担関連)は、「文教族」の抵抗のありようがほんとに詳しく載っていて非常に満足できる内容でした。朝日はこの点イマイチ。

で、教育行政の「地方分権」に関して思うところがあるので、ちょっと思考から文字に起こします。はじめに私の主張を言うと、「地方に容易に権限を委譲するのは危険だ」です。以下、論拠を。

義務教育費の問題でなぜ文部省や文教族が抵抗しているかについては、要は仮にこの財源を地方に移譲すると、文科省の統制が効かなくなる不安があるからです。この点に関してマスコミや教育学関係者の多くは「いつまで教育の国家統制の枠組みにしがみついてるんだ」とはがゆい思いに駆られていると思います。一般に「分権」は善、「中央集権」は悪、とはいわないまでも非常に悪い印象が持たれる現在。「地方分権」は現代のパラダイムなんでしょうね。私も地方に権限および財源を委譲すれば、いわゆる地域ニーズに弾力的に応えられる教育が現在より実現できる可能性がある、と思います。ただし逆にそうならない可能性も同じくらいあると思っています。

検討したいのは学校を統括する教育委員会と政治家とマスコミの話。話をシンプルにすると、現状は教育委員会が地域のニーズなるものを探るとき、地方議員をツールとして使っているという研究分析があり、要は政策形成に議員さんの意思が介入することになります。例えば国会議員が教育に対して発言した場合、内容的に問題があるならマスコミが叩いてくれますが、地方で問題発言があるとき、たしかにマスコミは取り上げるかもしれないけれども扱いは実際小さく、批判するにしても国政ほどには大きな批判にはなりえないことです。

県政レベルは多くの県で保守派が6~7割を占めます。とくに自民党の場合、執行部が全国の県連を統制する姿は先日の「小泉劇場」で見たとおり。つまり、地方はそもそも批判を受けにくいために、「地方分権」にも関わらず、現在国政レベルで流れている教育方針がストレートに反映されるようになるであろうという図式が見えるんです。

いい例が東京都。強権的な石原都知事のお膝元でいろいろな方策を取らずとも地方分権をなしえている「独立王国」ですが、都議会で民主党の某T議員が、君が代斉唱で歌わない、座席を立たないことに対して都教育委員会のY教育長に問いかけ、そのような教員にはしかるべき処罰を行う的な答弁がなされています。たしかに東京都の場合は極端すぎますし、地方によっては統制より現場の教育的価値を重視する政策を打ち立てる場合もあるかもしれませんが、地方分権は今までになかったような政治介入を引き起こす可能性から真に現代的な弾力的教育を生み出す可能性もある。従来より良い方にも悪い方にも幅が広がるわけです。価値判断は難しいですね。ただ間違いなく言えるのは、まちがいなく「愛国心」について政治家が従来以上に介入してくるということ。世論がひどく右傾化してますからね。。

逆に、もう一つ例を。品川区を見るとW教育長は文科省とコネのある人だし、そのためかある程度、都政や区政とは距離を置いて自立的な教育政策を行なっている部分があると言えます。すいません、こちらはつまみ食い程度のことしかいえませんが。。

現状は中央(すなわち文科省)に統制され縛られているのが問題、という認識があるかもしれませんが、逆に文科省が統制しているからこそある程度の影響力が行使されているのは事実でしょう。地方に教育的価値を重視する政治文化がすでに醸成されているなら地方分権にすんなり賛成できますが、現状ではムリという判断を下さざるをえません。今回の文科省および「文教族」の攻防は、私が思うに現在の「公教育」の枠組みを維持しえたものとして評価できるものだと考えます。


・・まともに論じようとすると、それこそ一本の論文にもなる話題で、blog用にひどく単純化して展開しすぎたきらいもありますが、以上で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 13, 2006

教育基本法・西岡案

「文教族の中の文教族」、あるいは「ミスター文教族」と呼ぶべき存在である西岡武夫(現・民主党、当時は自民党)を座長とした「教育基本法に関する検討会」で改正されつつある教育基本法への対案を作成しました。

記事を要約すと、「国」を条項に入れず、前文に該当部分を「日本」と改め、偏狭な愛国心教育に陥らないように配慮したものになっている、とのことです。たしかに今の「公」なるものを考えた際、「国」と規定してしまうことは、グローバリゼーションが進む現在、同じ社会に生きるのはもはや同国民だけではありえず、他国の人間を取り込んで様々な社会が成立しています。現状を考慮するならば「国」にこだわらず「日本」という言葉を使用した点についてはまだ妥当性があると考えます。もともと「政治」から「教育」を見るのではなく、「教育」をまっすぐ対象に見据えているという感のある西岡氏。私からしてみれば自民党案に比べたらこちらのほうが良いと考えます。

もちろん、そもそも愛すべき対象を盛り込むべきか、という前提の議論がし尽くされたとは思いませんが、このグローバリゼーションが進展しているいま、国籍を超えた交流があり、その中で同じ「社会/公共圏」という意味での「日本」という捉え方なら逆にむしろ設けてもいいのかな、と考えます。

以下、引用します。

民主党は12日の「教育基本法に関する検討会」(座長・西岡武夫元文相)で、政府の教育基本法改正案に対する対案を決めた。対案は前文と21条で構成。焦点の愛国心表記については「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」という表現を盛り込み、「国」という表現は避けた。15日に上部機関「教育基本問題調査会」(会長・鳩山由紀夫幹事長)で正式決定する。

 愛国心をめぐっては、政府案は「教育の目標」を定める第2条に「我が国と郷土を愛する態度を養う」と表記。民主党案は前文に「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想(おも)いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」と記述した。前文に盛り込んだのは「条項に入れれば教育現場での愛国心の強要に波及する」との判断。さらに「涵養」という言葉で強制イメージの緩和を図った。

 愛する対象を「国」ではなく「日本」とした理由について、鳩山氏は記者会見で「『国』というと政治機構が予想される恐れが消えないが、(日本という)名前を書き入れることで、その恐れも消える」と説明した。

 検討会では「愛国心が本文に入らないと法的効果が働かない」「前文でも法律に書き込めば、教育現場での強制につながる」など賛否両論が出たが、最後は西岡座長に取りまとめを一任した。【衛藤達生、山田夢留】

 ◇民主党が12日にまとめた教育基本法改正の対案の前文要旨は次の通り。

 我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に共生の精神を醸成することである。

 我々が目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義を愛し、美しいものを美しいと感ずる心をはぐくみ、創造性に富んだ、人格の向上発展を目指す人間の育成である。

 さらに、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯で取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成である。

 日本を愛する心を涵養(かんよう)し、祖先を敬い、子孫に想(おも)いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

April 06, 2006

教育基本法は誰が作った?

まずはじめに。kodamacさん、メールにていろいろとご指南いただき、まことにありがとうございました。文献など、(とくに『小説文教族』など)非常に参考になるものばかりで、また分析の方向性も指し示してくださった感があり、大変感謝しております。頑張ります。

さて、今日は教育基本法の制定をめぐっての話です。

最近詠んでた文献(『釼木享弘・速記録』)で、教育基本法制定の真相に迫る記事があったので、引用します。
なお竹前さんは憲法学者、釼木さんは「けんのき」さんと呼びますが、文部省生え抜きの文部官僚で元文部次官。そして次官引退後は自民党の議員として文部大臣も務めた方です。

竹前栄治: 
やはり立法過程から考えると、学校教育法もそうなんですけれども、GHQのほうから(教育基本法)案を作られてきて、これを翻訳して横のものを縦にしたというわけではないわけですか。

釼木享弘
特に教育基本法のほうは、これは司令部のほうから積極的に指示したんじゃないですよ。

竹前
指示があったんじゃあないんですか。

剣木
はい。あれは日本でやっぱり教育勅語に変わる日本の教育の、教育勅語というのがなくなったんですから日本の教育の基本をやらなければいかん、これはむしろ刷新委員会の自発的な日本側ので、向こうはただOKを言っただけでしてね、そういうものを作れといった命令はないんです。これははっきり言えるとおもいます。

竹前
そうですか。

剣木
学校教育法は違いますけれどもね。内容的にずっと向こうから指示を受けてやってきたんです。

・・とのことです。「証言」なるもの、真実かどうか判断が難しいですが、元事務次官、元文部大臣としてのコメントは信憑性は格段に高いと思われます。結論としては、政治家がよく言う「押しつけ論」は史実としては誤っている、ということになりそうです。

ただ、以上から完全に「押しつけではない」とは言えないこともまた事実。具体法である学校教育法はいわば「押しつけ」なのに、その基になる基本法である教育基本法が果たして本当に「押しつけ」ではないのか、というと、難しいですね。

さて、ここで分析の視座を。

政治学において「権力」を考えるとき、オーソドックスには3つ考え方があります。1つめは行為者が直接影響を与えるような行為を行なった、というときに行為者が権力を持つと考える「一次元的権力論」。2つめは行為者が直接影響を与えるような行為は行なっていないものの、彼の影響を考えて被行為者が何らかの行動を行なった、あるいは行なわなかった、とする「二次元的権力論」。そして最後に、そもそもそのような行動を行おうとするのに何らかの規律的な権力がかかっている、とする「三次元的権力論」。(ただし最後のものは観察が非常に難しいので、一般的に政治学ではほとんど上記2つを対象にしています)

この3つの考え方のうち、上記の剣木享弘の発言は「一次元」が否定されただけで、「二次元」に関しては完全に否定しているというにはちょっと根拠が足りないです。事実、逆コースの時代になる前の田中耕太郎文相は教育勅語復活を主張していたり、でも彼が文相をしている時代に教育基本法が発布されたり、まだまだ曖昧であることはたしかです。

#私としては自発的に・・という剣木さんの言葉をそのまま受け止めるのが真実だと思っています。というか、思いたい、ですね。

・・ということで、まとめとして、「教基法自身は直接押し付けられたものではない」ということだけ述べたいと思います。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

March 12, 2006

教育基本法改正言説に思う。

自民党の武部幹事長が公明党と協力して今期中の教育基本法の改正を目指すと明言した。

この「教基法改正」に関する言説について思うことが二点。

①改革の必要性

憲法の改正は自衛隊という「憲法」と「現実」との差異を埋めるため、という課題の解決のために改正やむなし、というのがあるけど、教基法にはそのような明確な課題もあるわけではないし、きわめて政治家の恣意的な主張がなされがちであることが問題。この改正に関して発言する多くの議員が「愛国心に関する文言がない」ことを根拠にしているけど、このことに関しては国民的コンセンサスはないはず。きわめて恣意的な政治的判断であると考える。

②改正後の教育改革への筋道

教基法を変えて、結局何か具体的に変わるのか。その具体的政策の筋道がまったく見えてこない。まさか理念だけ変えて具体的な対応をしない、ということは頭のいい議員さんならやらないだろう。
いまぼんやりと見えている筋道としては、「愛国心」に関する文言を教基法に入れて、それを徹底させるための教委を通じての管理・統制的指導を徹底することだろうか。・・なんだか左翼的な組合がいいそうなことを自分で書いてて嫌になるが、現場の教員にこれ以上圧力かけても、なんだかんだで現場サイドで今までどおりに「抵抗」があって、思ったような成果はあがらないだろう。

文教族の祖である坂田道太が、かつて1970年前後の大学紛争の頃、大学をきびしく統制しようとする内務省的な政策のかわりに、大学へ補助金などをだして学費の高騰を抑える政策を推進して、「北風と太陽」と評し結果「太陽」の政策が大学紛争を解決させた。

理念を押し付ける「北風」よりも現場教師の負担を軽減したり財源を保障するなどの「太陽」の方が、教育的成果を挙げるにも、そして(あまりそうあってほしくないが)理念を浸透させるにしてもきっと有効である。

| | Comments (7) | TrackBack (1)

January 31, 2006

『AERA』の「東大脳」

今週号の『AERA』の特集記事で「東大脳を作った家庭」が書かれています。内容は「一般的に東大に受かるような成績でなく、いろいろやりたいことをやってた高校生が東大に受かるまで」を追ったものでした。

私が思うに、東大に入るのはいいけどそれから何をしたいのか、子供の意思も親の意思も書かれておらず、東大に入ること自身が「善」みたいな書き方になっていたところがすごく気になりました。いま問題になっているのは有名大学出てニートになる人間でしょ。たしかに「賢い」人間ほど、あくせく働いても割に合わず儲からないし辛いだけ、という現在の状況が働くことなしにわかってしまうもんなんだろうと思います。私の場合、実際に働いてみて実感した、ということで頭はやっぱり良くないなと思ったもんですが^^

この点を考慮して、「東大脳を育てた」だけでクローズせず、プラスして「生き生きと仕事をしている東大脳を作った家庭」というテーマで記事を書いてもらいたかったなぁと思いました。

もひとつ。

中学校、高校をあっさりと中退して、でも東大医学部(理科Ⅱ類から進学とのこと)に進んだ女性の話もありました。東大医学部に進んで結果的にOK、という考え方なのかもしれませんが、中学校や高校の中退をあっさり認めることが、果たしてよい「家庭」なんですかね?私に言わせりゃ、「東大脳」は作れてもほかに大切な「脳」はもしかして失われているじゃないのか?なんて思うわけですよ。いわば、「東大脳」=「善」「皆がめざすべきもの」ではないよね、という考えです。

#私の場合、高校がまるで「東大予備校」で勉強至上主義の学校だったから、本来得られるべき経験がない、言うなら「失われた3年間」なんて感覚があるので、学校文化みたいなものは大事にしたいなぁと思うクチであり、それが教育を考える上での「フィルター」みたいになっていることは否めないんですが・・

「東大脳」だからって、(まあしっかり生けるという可能性は高いでしょうけど)世の中でちゃんと生きていけるかわからない。それと同じくらい学校にいて磨かれるもの、もしくは嫌でも我慢することなど、人間を作るうえでもっと大事なものがあるんじゃないか。

・・こんなふうに読んでいて思いました。

あと、これらの家庭はおそらく社会的に上層に位置する家庭であろうということは記事の端々から読み取れました。教育を語る上で、「階層」は除くに除けない重要な要因です。上に挙げたような「自由度」もそこから派生しているんじゃないか。いずれにしろ、(私ごときで偉そうなことは言えないですが)ちょっと不満を感じる、「不足感」を感じる記事だと思います。

今回は以上で。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

January 26, 2006

ライブドア事件に思うこと(とくに教育言説で。)

ついにパクられてしまいましたね。

「これくらいは違法ではないと思っていた」と数日前、ライブドアCFOの宮内さんが述べていましたが(注・現在は「税理士として違法だとわかっていた」と証言を改めています)、この発言の通り、ライブドアクラスの「犯罪」なら、とくに新興企業も多く行っているのでは、と思われます。

しかしだからといって地検が片っ端からガサ入れすることは活況を呈する株式市場に重大な損害を与えかねない。ライブドアはその見せしめにされたなぁと思いました。とくにヒューザー事件で安倍とか森派の関与を隠す「目くらまし」にされた感が強いです。また宮崎勤の死刑判決も「目くらまし」としては少なからず効果はあったと思います。ま、宮崎裁判の方は偶然が重なった部分もあるかもしれません。

個人的な心配?として、あの社長さんはこれからどう生きていくのか、気になります。著書『稼ぐが勝ち』を読みましたが、「金があればこそ固い人間関係が築かれる」と述べていました。金をなくした(正確には金を稼ぐためのツールである自分の会社から追放された)彼は、やはり自らがライブドアを発展させたように、また一から起業してこれまで推進してきた行動を「再生産」するんでしょうか。もし「再生産」できたならば、彼の著書等で述べてきた「理論」は極めてその高い実践性を証明することにもなります。そうなれば下手な経営学者より優秀だとも言えそうですね。そうなればビジネススクールや大学の人気講師にもなれそうです。

・・もちろん成功すれば、の話ですが^^

さて本題。

社長逮捕を受けて、なぜあのような人物が出てきたのか、それを教育に求める有識者が多いことが気になります。それもただ「多い」ことが気になるのではなくて、批判の対象を「戦後教育」そのものに求める人が多いことです。

今日の読売新聞には、今回の逮捕劇で一躍注目を浴びている東京地検特捜部の元部長・河上和雄さんが、「今の教育は権利や自由ばかりを教えている」とし、きわめて断定的に「戦後教育が悪い」と述べています。個人的に河上さんはイデオロギーからわりと自由に、そして論理的に話をされる方で私は大好きなのですが、(ついでにそのボイスも大好きなのですが)彼の言う「戦後教育」に責任に帰すのは、ちょっと言い過ぎではないかと思いました。少なくとも「権利・自由を強調する」ことが「戦後教育」という大きな枠組みとイコールに考えていいものか、という点が非常に気になります。もう少しよく考えなければならないのではないでしょうか?

河上さんに限らず、自民党のとくに保守派に目立つ言説として「戦後教育批判」が横行しており、具体的には「教育基本法が変わらないからあのような人間が生まれるのだ」という論理で、このライブドアの事件と絡めて教育を語ることが多いですね。いや、もはや教育を語るというより、露骨に教育基本法改正を図るべきという政治色の強いメッセージになってます。

そもそも、「権利・自由ばかりを強調すること」が問題なら、教基法を変えないでも、指導要領の変更、すなわち文部省からの行政通達で教育内容について変えられるやんか。一様に、今行われている教育を「戦後教育」として一括りにして非難することには、問題があると思われます。「戦後教育」なるものを問い直すと、その核は、強い権力に屈しない「民主主義精神の育成」にあるわけで、(今こんなことを言うとロマン主義者だと言われそうですが^^、気づかぬうちに我々はその恩恵を享受してます)その核からこぼれ出た「権利・自由の強調」それ自身は「戦後教育」の一部に過ぎない。だからすべてを一緒くたにして議論するのは理論的にもおかしい、そう思います。

また、「権利・自由の強調」を社会学的背景から考察を加えてみると、1960年代以降の高度経済成長期で地方から都市に出るなど移動が進み、地域的な規範が消えかけていることが統制の欠如を生んでいる。だから同じ教育を行っても、統制が効いてないから「自由ばかりを強調する」ように見えてしまう。だから河上さんの挙げる教育の課題も、実は教育ではなくて、社会の問題であるとも考えられるのに、しかし「教育が悪い」という現在流行りの言説に載せられてる、と言うこともできるかもしれません。

ただ、現実的に規範意識の欠如は目に見えてあるわけで。
問題がある以上、学校教育はこれに対応しなくてはならない。しかしそれは政治家が述べるような「教基法の改正」とはあきらかに別次元の話です。

どうも政治家の語る教育言説は、いっけん「教育」を語っているけれども、どうもその実は「政治」を語っているにすぎないのでは・・と学部時代から思うんですよねぇ。

この意味で、私は自分の研究の対象である「族議員」、すなわち「文教族」さんに、不安を感じつつ期待もしていたりします。ただし、森さんを除いて。

今回は以上で。

| | Comments (3) | TrackBack (2)

December 29, 2005

日経新聞の教育論

私のお気に入りの飯田橋ドトールで文献を読みつつネットサーフィンしていたら、日経新聞の「再び教育を問う」という特集ページに行き着きました。(今日もちょい長です)

さっそく読んでみましたが、私が抱いたのは、日本を代表する教育社会学者である藤田英典が言うところの「強者の理論」やな、という感想です。

この日経新聞は、企業人・業界人の(実際の読者・潜在的読者を合わせて)大半を読者層にしており、彼らは世論が形成される際、オピニオンリーダーを強力にバックアップする層になるわけで、そんな彼らを「囲っている」日経新聞の記事は彼らに対して大変な影響力があると考えてよいと思われます。

総括して日経の記事への感想を思いつくまま挙げてみます。

・有名企業、いわゆるリーディング・カンパニーの“経営者”のコメントを冒頭に持ってきて、その主張に合わせるように教育論を展開している。

・「優秀な人材は海外へ」「ゆとり教育は日本の産業への打撃」・・という言葉が多く出ており、これが最近の保守化傾向にある「日本」好きな読者を刺激している。

・学校選択制は賛成で、地域との連携・学校開放を大いに進めろ、という論調で、かつ基本的に学校の先生からの視点は少なく、「頼りない」「不信感」などマイナスイメージを煽る内容がきわめて多い。


※私見ですが、一般的にサラリーマンは「公務員」と聞くだけで嫌悪の対象となっている感じがします。友人を見ると、9時-17時幻想はさすがにウソですが、それでも民間企業より早く帰れてゆとりがあるようには見えます。日経はうまくそこを突いている気がしますね^^

・都合のいいときだけ苅谷・藤田先生など「教育学の大御所」の意見を引用する。(裏を返せば学校選択制の話のときには間違っても藤田先生は出さない。)

もう一つ私見ですが、読売も似た論調だと思いました。サンケイはバリバリの「保守思想」ですが。会社で教育論を戦わせることはなく、まわりのお父様方の意見は聞けませんでしたが、学部時代の同期はこの「日経的思想」とかなり近い考え方をしています。このあいだ雄弁会の演説を聴いたけど、同じように企業・学校選択制・地域開放なんて言葉が出てきましたね。

この中で、学校選択制に対しては教育学においても偉い先生方が論争したくらいだし、統一した見解には至っていないと思われますが、それでも企業の論理とひとくくりにして論じている人はほとんどいないと思われます。要は、そういうエリート教育で恩恵を受けるエリート殿(主に教育にお金をかけられる上層の方々)はいいけど、それに漏れた下層や逸脱者はどうすんねん、という議論は日経の教育論にはまったくといっていいほど見られないわけで。ただ上を引っ張りあげるのが教育か?国家か?・・それは違うだろ、と思っています。


・・結局、一般大衆の声を聞くのが政治で、教育も一般大衆の声を反映させなければならない、という「民主主義」の鉄則があるわけですが、その声を煽っているのは、こういうマスコミの論調なんだろうな、と考えています。マスコミによってある程度世論が形成されたら、専門家が「そうじゃないよ」と言ってももう止まらないでしょうね。政治家も「国民の声を受けて・・」という大義名分もできる。

なんだかマスコミのフィルターを通すと、イデオロギー的なものでない限り、すべてが「正解」に見えてくるから不思議。

きっと、実際に有効な教育改革を実行するには、こういう「裾野」の構造から議論・検討しないといけないとちゃう?と考えてます。

そういや私のとてもお世話になっている先生も、いわゆる「普通」の学校から逸脱してしまった子どもへのオルタナティブ・スクールを推進する過程で、上に挙げたマスコミと文教族が結託して困っている、という話をされていたっけ。よくわかる気がします。

| | Comments (1) | TrackBack (0)

December 20, 2005

学校選択制賛成論について

#最近はMixiに日記を書いててブログの更新を怠っております。そんなわけでこの記事もMixiに書いたもののコピペです・・以下、本論。

修論締め切り間際のM2か?というくらいの時間にカキコ。(注・最初にアップしたのは本日AM3時56分)今日も地元のドトールで本読んだり、資料の手直ししてたりしたらもうこんな時間。明日は午前中授業なくなったからちょっと油断して夜更かししてしまいましたよ。。

そんなこんなで、昨日思ったことを。

・黒崎勲の学校選択制賛成論について

黒崎勲『教育の政治経済学』(2000年、東京都立大学出版会)を読みました。(注・黒崎さんは日本教育行政学会前会長)そこで、彼は「市場原理による学校の質の向上」には疑義を投げかけますが、「学校の意思決定に住民が関わることによって官僚制に対抗する市民性が育成できる」という目的で学校選択制を推進するという立場、だと解することができると思います。(ちょっと平たく言いすぎかもしれませんが・・)

たしかにその理念は立派で実現できればそれにこしたことはないんですが。しかし、政治学にはこんな理論があります。ロベルト・ミヘルズが唱えた、どんなに民主的な組織(たとえば政党)でも、結局意思決定を行うのは少数者で占められてしまうという「少数寡頭制の原則」。すなわち学校に当てはめれば、学校長のほか、住民代表として少数の有力者が選ばれるのでしょうが、たいていその住民というのは、学校に来れる、発言できるだけの時間的・経済的余力を持った地元の名士・名家である場合が多いでしょうね。傾向として、そのような人は市議とか県議などの政治家とつながっていることが多い。地方においては市議会は無所属が多いけど、県議会ともなれば保守(つまり自民党県連)が平均7割近くを占める保守王国になっており、なまじ党本部よりも保守色が強い場合もあったり。教育委員会は建前では政治からの独立をうたっていますが、「任命制」の現状ではだれが任命のイニシアチィブをとるか、という点で政治が介入することが考えられます。その結果、官僚制を批判していたのに逆に強固な政・官・学のコラボレーションが形成される恐れがあります。ウィッティさんは同書で「地方分権も中央統制の新たな形態の一つである」と述べていますが、日本における具体的なメカニズムはこのようになるのではないかと考えます。地方ってやつは、国政機関と違って地味だし注目されにくい、かつ自民党県連はこの前の選挙のときに見たとおり相当強力やしね。

結局民主的な理念のもとで、民主的な選出方法と運営方法を行っても、黒崎さんの議論の前提には選出されるであろう住民の層の属性や人的コネクションなど、「人間」をあまり見ていないという感じがあって、結果としてより締め付けの厳しい学校になる可能性があると言えると思います。

そんなわけで学校選択制では私は藤田派ですね。何より公立やったら通学の距離を短くして交通の安全を図るべきだし、それが確保される近くの学校を2,3校から選ぶ、その際「市」という枠を超えて、真に近い学校を選べるようにする、というスタンスでいいんじゃないのかな、なんて考えます。

(追記)

最近大学合格実績において公立高校が復活の兆しを見せており、京都では「堀川の奇跡」なんて言葉も出るくらい公立高校の復権が言われつつありますが、単に不況のあおりを受けて経済的な理由から、本来私立に行ったであろう人が公立にとどまったために起きた現象、と考えるほうが正確なのかなと考えます。決して公立高校においても特別な指導方法がなされているとは思えません。(証拠はないんですが^^)

ただこれが正しいとすると、受験においても公立高校は決してひけをとらない、ということはいえると思います。となれば、悲しいですが、大学の合格実績が社会的評価尺度となっている高校にとって、不況が続く「いま」が公立高校復権の最大のチャンスであるといえます。きっと景気が好況になれば私立に流れることは確実なので、今のうちに公立はやれるだけのことをやって、少しでも私立に流れる人材の「足」を止めさせるだけの「手」を今こそ講じる時ですな。

今回は以上。

| | Comments (2) | TrackBack (1)

December 04, 2005

サンタさんが贈るもの

昨日、電車の中での若い父子の会話より。

(子)もうすぐサンタさんが来るんだよね。 (父)そうだよ、あと3週間くらいだな。 (子)お母さんがいい子にしていたらサンタさんがプレステ2くれるって言ってたよ。 (父)そうだね、お母さんの言うことよく聞いていい子にしてればサンタさんもくれるかもしれないぞ。 (子)うんっ。あとお母さんも普段がんばってるからサンタさんがプラダのバッグくれるって言ってたよ! (父)ハハ・・そうだね・・(汗)

いやあ、聞いててほのぼのしましたよ。お母さん、ナイスです^^。サンタさんと絡めてさりげなく。。

・・考えてみると、サンタほど子どもの想像力を掻き立てるものはないですね。赤い服着たひげもじゃおじさんが、どこからともなく鍵のかかっているはずの家の中に入って、子どもの枕元にプレゼントを置いて去っていく。かなり非現実的かつ非科学的ですが、それでもサンタさんはそれを超越していろんな「術」を知っているんだと勝手に納得していたものです。まあサンタさんが実在するか実在しないか認知する年齢を自己の経験から予測すると、やはり中学生に上がるまでには8割方わかっている感じでしょうか。それまで子どもは今までウソを教えられているわけですが、でもだからといって「言語道断、けしからんっ」という気は(今になっても)まったくなく、むしろいろんな想像力や自分を律するような役回りを果たしていていいもんだな、と思っています。後者の意味では秋田の「なまはげ」にも近いのかもしれませんね。

で、これと絡めて最近の小1児童の痛ましい事件に関して。

自分がいい子にしてても「ヘン」な大人から命を奪われてしまったわけですね。かたや首を絞められ、そしてかたやナイフで胸を突かれて。悲しい限りです。もうすぐ「サンタ」さんがいい子にしていたご褒美にクリスマス・プレゼントをくれたはずなのに。

ペルーから来た彼も、そしてもう一つ栃木の犯人も、きっとあるときは「サンタ」さんだったと思われます。人間は一枚岩ではなくいくつもの性格が集まってできていて、きっとだれもが、「自分より弱い立場にいる人間を思うがままにしてしまいたい」気持ちを多かれ少なかれ持っていますが、どうにかそれをうまく押さえられるようにならなければならない。過去の研究によれば、これを巧くコントロールできない人は幼少期、とくに親や身近にいる人などから過度の緊張を受け続けてそれから逃れようとするために幼児・児童に向かってしまうことが多いそうです。本来あるべき大人として、そして本来の「サンタ」として・・過保護っ気のあるいまの子どもの教育には細心の注意が必要なんだ、と思います。

#結局とりとめもないまま書いてると、いつものとおりこんな結論になってしまうのですが・・^^

サンタさんは子どもの想像力の「種」と、古典の言葉を引用すれば、子を思う親の『心の闇』を両方とも贈れるといいですね^^

| | Comments (0) | TrackBack (0)

November 27, 2005

「文教族」を考える その1

寒くなってまいりました。風邪をこじらせつつ来年度の修士論文に向けてゼミでの発表草稿を作っていますが、それをせっせとつくっている最中に思うところがあったので、今回はそれについて。

いま非常に政治家に関心があります。むろん自分がなりたいというのではありません^^。「政治家が教育政策にどう影響を与えているのか」という部分について、です。学部(学科)が政治学科だったこともあり、政治家が教育について科学的にどこまでしっかり理解したうえで政策形成を行っているのか、これはぜひとも考察されなければならない点だなぁと思った次第です。

とくに近年はやたらと「国家」「伝統」「愛国心」とナショナル・アイデンティティにこだわる保守派が多く政策形成に提言しているし、また「教育に市場の競争原理を導入して、教員の質を高める」だとかの市場経済型の考えを教育分野に持ち込もうとする勢力が強くなっており、それに呼応して保守派が極めて多い各自治体では「学校選択制」なんて制度が拡大傾向にあります。東京の品川区はその「はしり」ですね。

ここで憂慮しなくてはならない(というか個人的には面白い)点は、教育学者なり教育研究家は、前者の「新保守主義」、後者の「新自由主義」的考えにかなり多くが否定的であるということ。少ないながらも私が読んだ文献の中で、教育研究者がどちらかにでも賛成をしている文献に一冊もお目にかかったことがないのです。そりゃ、世の中一般から見れば変わり種が多いと思われる学者先生だから、考え方が一般的じゃないよ、という見方もあるいは出来るかもしれませんがそれでもね。つまり、政治で決定されるものと、実際の研究成果が乖離しているということを問題にしたいわけです。はたして「政治主導」で良い方向に向かうのか。この点は必ず検討しないといけないと思っています。

ここで具体的に日本の政策形成システムを見ていくと、もちろん審議会などで専門家の答申を参考に官僚側が政策形成を行うわけですが、結局自民党という政権与党の有力議員の意向に沿ったものでないと自民党の部会で否決され廃案になってしまうので、官僚側もとくに自民党の政治家を見て組み立てないといけない。このときにとくに影響力を持っているのが、政治家の中でも俗に「族議員」と言われる議員です。すなわち教育では「文教族」。日本の政策形成は教育政策でも述べたように政治体系の中で行われるので、その体系の中に入れない教育研究者の言説はほとんど政策形成に影響を与えません。ま、一部の有名な先生は中央教育審議会という教育系審議会の王様みたいな審議会に所属して自身の意見を言うことはできますが、それが政策に取り込まれるかはまた別の話。現状はその声をあまり反映していないと思われます。こういう実情からも、「文教族」の動向は政策形成に強い影響力を与えているはず。こうした点からも文教族が志向するものを分析する必要があると思っています。

#ちなみに「族議員」とは、概念として「特定分野においてその官庁の官僚と結託し、自身の影響力を反映させる有力議員」のことで、主に①4回以上の当選(自民党は当選回数でポストを割り振る慣習があり、部会の部会長になれるのが一般に当選4回だということです)②部会の所属期間(4回だとだいたい10年くらいになります)③政策形成の能力、を兼ね備えた議員のことを言います。「特定政策に強い」という点ではアメリカ、イギリスの議員と変わりませんが、彼らは自らのスタッフで政策立案を行って議会で議論を戦わせるものの、族議員の場合は官僚と結びつき官僚に政策立案を行わせ事前に議論あまり戦わせることなく政策原案をつくりあげる、という相違点があります。

さてそんな族議員のひとつである「文教族」ですが、年代別の代表的文教族は以下のとおり。

■1987年 (猪口・岩井『「族議員」の研究』1987より抜粋) 

西岡武夫、藤波孝生、海部俊樹、森喜朗、三塚博、石橋一弥

この六人は「文教六人衆」と呼ばれた人物で、いろいな文献で「彼らは気高く、そして熱かった」という記述がなされているとおり「教育政策」を強く主導した方々です。しかも石橋さんを除けばすべて早大出身者ですな。現職の先生も一番多いのは早大出身者らしいし、私にとっては諸先輩方の足跡を辿る作業になりますか^^

■2003年 (週間朝日「族議員100人リスト」より抜粋) 

森喜朗、河村建夫、稲葉大和、臼井日出男、(尾身幸次、谷垣禎一)

前4人は文教族、後2人は科学技術族出身のようです。特徴的なのは森さんと谷垣さん。前者の森さんは「日本は天皇を中心とする神の国・・」発言に代表されるとおり強い保守色を有している人で、後者の谷垣さんは現在の財務大臣であり、かつ商工族でもあることから、かなり経済主導の文教政策を押し進める立場にいるのでは、なんて推測しています。

それぞれの時代背景の分析などはまた次回に^^

| | Comments (0) | TrackBack (0)

October 22, 2005

教員専門職大学院と免許更新制に関する私論

中教審の答申がもうすぐ出されますが、再来年(2007年)から教員を養成する専門職大学院が開校されます。私の通う早大も時を同じく開校予定(という噂を聞いた)、東大は試験的に先行して来年から開校されるそうです。どうにも議論が深められておらず、見切り発車的な感は否めません。具体的に「教職に就く学生の育成機関」とか「現職の先生の研修機関」など確定した情報がなく、まして「その大学院に行けば非常に高い倍率の教採試験を受けずに採用可能」などロースクール的な発想なのかまだ確定していないので確かなことは言えませんが、とにかく教員になる、教職に就く、ということに関して大規模な「地殻変動」が起こりつつあるということはたしかです。
 
これと絡めて、教職免許の更新制という話題も挙がっています。現在、免許は終身制で、教師の「質の保障」に関わる問題として議論されています。

個人的な見解を述べると、私はどちらにも賛成です。現在の教師の最大の「敵」は「親」だと指摘する人もいますが、親が教員に多く口を出すようになった背景には、親の「高学歴化」があると考えます。社会全体の高学歴化によって教員の「専門職」たる資格的地位が相対的に落ちている。とくに教員と同じように大学を卒業して自ら教職免許を持つ親、理系では大学院出身の親もかなり増えてきている中で、従来の免許制度・教員採用制度では「専門職」たる資格の権威は完全に薄れています。たしかに「教員は資格や学位ではなく中身で勝負すべきだ」という意見もあり、それはもっともですが、まずは「形」の上で、相対的に上位の資格となる公的な「修士号」取得を土台とし、より専門職としての地位を確保することがこれから教員にとって必要だと思っています。

これからは、大学と大学院の役割の「棲み分け」がより明確になり、とくに大学院は従来の研究職にしろ、また専門職にしろ、自らの希望を叶えるため専門的に勉強する機関として位置づけられていくはず。アメリカの高等教育研究者マーチン・トロウの「大学モデル」も高等教育の必然的な拡大を暗示しているし、社会的に専門職と認める資格を取るなら大学よりも上位の機関に主導権を移動させることは必然的な政策だと言えます。

#おまけですが、教員文化においても最近「個人化」が進んでおり、苦しいときになかなか相談相手がいないことが多いそうです。インターネットなど通信の発達の中で、専門職大学院の「同期」は学校内で弱くなる人的連携を補完する存在としても重要になるのでは、と考えています。

次に「更新制」についてですが、日本は「開放性」と呼ばれる免許制度で、大学で教職免許を取りさえすれば、他の企業などの世界で生きてきた人が(所定の手続きを経れば)いつでも教員になれる、という制度を採っています。「更新制」を議論している人も、他業種から移動してくる人材をむしろ好意的に受け入れる姿勢を見せており、私も(元営業マンということもあって)大学・学部から教員へ「純粋培養」の教員だけでなく、とくに企業社会にいた人材が教員になって活性化することが重要だと考えています。だから、「更新制」として「免許取得後有効期間5年間」等々、十把一からげにしないで現職の教員にだけ適用して欲しいと願っています。

そんなわけでこの二つの制度を連関させて新たな教員養成、免許更新制度を考えてみました。先日仲間うちで議論したものに補足を加えたものです。以下、書きます。

 ①従来の教職科目を大学卒業時までに取得、これを「仮免」とする
 ②教員を志望する者は今後、教員専門職大学院への入学を義務付ける
  その際「仮免」を受験資格、もたない場合も「予科」の形で入学後取得可能
 ③学部から進学した者は2年間、社会人経験者は1年間の履修とする
  また教育学の修士号を有する者も1年間の履修とする
 ④所定期間の履修後、採用試験を受験、採用後から「更新制」を適用する
 ⑤更新は「標準学力試験」(センター試験レベル)、および「面接」にて判定する

なお私学教員も、例えば私学助成金に見るように「公教育で補いきれない教育の機会を補完するもの」という性質を私学が有していることから、やはり上記のシステムを経て配属されることが望ましいと考えます。

以上、おおまかですがまとめてみました。コメント等いただければさいわいです。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

October 20, 2005

「二・二六事件」私的反省会

大学の教職で模擬授業的なものをしてきました。授業テーマは「二・二六事件」。学部時代から勉強してきたテーマだったこともあり、もともと知識量は十分で、資料を読み込んで授業案・板書案・資料を作成し、万全の体制で授業に挑んだのですが・・・結果は反省に反省を重ねないといけないものになってしまいました。うーん・・。

そんなわけで反省と振り返りが必要であり、とくに文字にして書いてみることで改めて頭の中でもやっとしている部分をはっきり意識化できるかと思っています。今後の自分のメルクマーク(指標)にするために、この機会にブログにアップします。

まず反省点から。先生および教室からの指摘事項は以下の通り。

・事件がなぜ失敗したかの考察がない、大事なところを伝え切れていない

・板書が長すぎる

まぜ前者について。これを指摘されると、かつて学部時代の主専攻だったがゆえに一番イタイです^^。今回、事件を取り扱うということでまず原因(統制派vs皇道派、国民改造運動、相沢事件)とそれがもとになる社会背景(経済、教育)を挙げ、最後にこの事件の意義として「軍部の発言権が高まる」・・なんて流れを組み立てたわけですが、もらった指摘から感ずるに、「事件」たるもの、それがどういう結果に終わったか、またなぜそのような結果になったのかという考察を必ずしなければならないことを痛感しました。つまり、「なぜ二・二六事件は失敗に終わったのか」。中学で一度習っているし、失敗したことは既に知られているから結論はいいかな・・なんて思っていたら、それこそ授業の「骨」であり、改めて問い直さんといけない。図式化してもう一度整理。

・小生案 :  事件(事件概要/原因)        ⇒ 意義

・必要案 :   事件(事件概要/原因/結果考察) ⇒ 意義

言われてみりゃ、「原因-結果の考察」なんて当たり前の話やのに・・。

次に後者について。これは経験則の部分かもしれませんが、かつての主専攻だったこともあって、あれも書きたい、これも書きたい、となってしまったのが原因なり。「Heinrichさんにとっての板書きの位置づけは?」なんて質問ももらってしまいました。板書きって生徒の身体を動かせることで「授業への集中」とか最低でも「眠らせない」などの効果があると思っています。改めて「必要なことをコンパクトにまとめたもの」としての板書きをするように心がけないといけないなぁと感じた次第。

******

あと個人的に反省を要する点。

・「構造分析」という手法にこだわって事件の本質を伝えることを怠った

・高校生対象として最初から自分でレベルの「線」を決めない

私の中でしっかり理解していた事件の真実(統制派・皇道派を問わず陸軍上層部が認知していたのに、結局トカゲのシッポ切りで全部青年将校の責任とされ処刑された)が結局、「授業をどう組み立てるか」のテクニカルな部分に目が奪われて授業に反映できず、「足りないんじゃない?」と指摘されたところは大いに反省しなくちゃならないです。あと高校の授業だからといって、勝手にこちらで「ここまで」というラインを引いてはいけないというところ。教科書に合わせて授業をつくるのではなくて、歴史研究という観点で授業作りをしないといけないことを改めて痛感しました。結局話す内容は教科書のレベルからみるとかなり高い次元になることは必至ですが、逆にいえばそこまでやらないといけない。

最後に今日の模擬授業で得た教訓を。

・「本質」を押さえた骨組みを一番に考える。テクニカルに走らない。

・「必要なものをコンパクトにまとめる」を念頭に置いた板書案の作成。

反省するといろいろ出てきますね^^来年の6月に実習だからそれまでに何度も反芻しておかないと。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

September 28, 2005

教師集団のテレビ出演で思うこと

コメントをいただき、改めて考えをめぐらせていたところ、あれこれ書きたくなって新規で記事を書かせていただきます。今回は、テレビ出演する教師集団に思うこと、です。

私も、テレビに出演して教師集団が自分のクラスの窮状を語っている映像を見るのがキライです。言葉は悪いですが「またお前らか」という印象なんですよね。

なぜこう思ってしまうのか、自分なりに分析してみました。

まずは集団でテレビにあらわれて顔を見ただけで、すぐに「学校・教室の荒れ」を想起させること。これも目をなんとなく背けたくなる原因ですが、一番イヤなのは、そしてその窮状を訴える教師がある程度「高齢」のベテラン教師であることです。本人達は、「ベテランでも止められません」という被害者的姿勢で現代の子どもの「奇特さ」を訴えようとしているのかもしれませんが、それってある意味、自分達の責任を放棄して哀れな教師の姿を自ら出しているだけじゃないのか。そこでの言い分もなんとなく先生として一段高いところから発する「高慢さ」を感じざるを得ず、言葉は悪いですが「仕事もできないのに何言ってやがる」などと思ってしまいます。

テレビ局は何を狙っているんでしょう。子どもの実態を知ること?教師の奮闘ぶりを伝えること?それより私は実際にみた印象として、「現場教師の頼りなさ」が全面に押し出されたように思えます。専門職とされるもので、そんなに集団で出て窮状を訴える職業は他にあるか?ありません。テレビに出て日本の多くの視聴者に堂々と白旗を揚げているんですよ。また集団だからこそよりいっそうそういう印象が強められる。

そんな先生方に親御さんも信頼なんて寄せられないのは当然です。私が見たいのは、自分の生徒の「おかしさ」を訴える教師ではなく、自分の教育理念の「正しさ」を訴えられる教師です。

そんな自分の望む姿とあまりに違うからなんとなく嫌悪感を感じてしまうのかもしれません。

・・といつも以上に攻撃的になっていますが、私自身現場の先生とお話しする機会もあり、大変一人ひとり苦労をされていることはしっかり認識しています。クラス担任は食事の暇もないほど忙しい風景はざらですもんね。

ここで一番いいたいことは、教育において「経験」が果たしてどこまで役に立つかということです。もしそれだけを頼りに教育を行っているベテランがいたら、それは非常にまずい。科学的ノウハウを常にアンテナを張り巡らせて自ら取り入れることが必要です。プロなら忙しさを超えてやるべきものがあるはず。

このところ、教育を家庭の責任に帰すような記事を書いていますが、現場でもまだまだやるべきことは多いはずです。おそらく「多忙さ」が現在の最大のネックでしょう。それを超えて教育成果を挙げたとき、集団で出るのではなく、個人としてしっかり名前を全面に押し出されることでしょう。

私としてはそういう先生をテレビで見たいと期待しています。切なる願いです。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

September 23, 2005

「小学生の暴力、過去最多」

コメントを頂いてそれにお返事を書いていたらまたまた長くなってしまい、せっかくなのでさらに加筆してまとめさせて頂きます。ものすごく重要な問題なのでいずれの機会に書きたいな、と思っていたのでちょうどよかったです^^

きっかけはこのニュースから。

小学生の暴力、過去最多 対教師が前年度比33%増

対教師への暴力が激増しているそうですね。そのほか生徒・児童の問題行動も増加しているという報道をよく耳にします。この記事の中で文科省がこのようなコメントを出していますね。

文科省は「表現力や忍耐力不足から短絡的に暴力行為をする小学生がいる一方で、教員が子どもを注意深く見るようになったことも増加の要因ではないか」としている。

「表現力や忍耐力不足から短絡的に暴力行為をする」というのは正しい認識だと思います。子供たちがいわば本来の精神年齢に達していない「未成熟」だから暴力に訴える。子どもたちが日常的に見るテレビやアニメにも「暴力行為」で難局を乗り切るシーンが多いでしょうし、まだ未成熟な子供たちは衝動を抑えきれずに行動してしまう傾向が強いものと思われます。

さて、これが直接の原因だとすれば、さらに「表現力や忍耐不足はどうして起こるのか」という根本的な原因の解明をする必要があると思います。稚拙ながら、私が今まで読んだ文献や研究成果等から得た知見から述べると、端的に少子化による親の過保護・溺愛が背景にあるようです。つまり、自身の少ない子どもを熱心に教育したいがために、親が選択肢を与え、果ては親がその選択肢から「子どもによい」と思われるものを自身で選んでしまう。このため、子どもは自分で考えて、それを稚拙ながら言葉で語らせるのが適当な時期に、その機会を奪われてしまっている傾向が強いようです。忍耐不足もそう。いけないとは思いながらわがままを許していることが多いんじゃないのでしょうか。親も不況のあおりを受けてどこか忍耐不足になっている世の中、子どもの忍耐不足を注意する人が少なくなっているように思えます。このあたり、同様の原因が非行につながることを、むかし私が書いた記事(「少年院参観記と女王の教室」)でも指摘させていただいたので、こちらものぞいていただければと思います。

少なくとも私が生まれた世代(昭和50年代前半)より前の世代は一家の子どもの人数も多く、親も一人にだけかまう時間的・経済的余裕もなかったと思われます。また兄弟・姉妹がいることは「子どもは子どもの中で成長する」という、かの阿久津先生の言葉通り、気持ちの分かり合える身近な兄弟姉妹の存在はそれだけでプラスだった。もちろんこの時代でも過保護でダメになった子は少なからずいたでしょうけど・・。思い返すと過去何回もドラマ化され映画にもなった(昨年もドラマ化された)1976年発表された小説、森村誠一『人間の証明』には教育評論家の母の下で転落人生を歩んだ息子の悲劇が描かれています。当時はこれを「ネグレクト」(無視)のシンボルとして、今は「過保護」のシンボルとして見ることができるのではないでしょうか。

ところが今や時間的・経済的余裕を少ない子どもに「集中投下」することができるようになり、人間関係も親とのつながりだけになってしまった子どもが多い。これが上記の過保護につながっていきます。さらに、近年的な傾向として、一種の精神病として認知されつつありますが、子どもに依存してしまう「共依存」(解説はこちらへ)が、とくに母親間で増えてきていることも挙げられます。かなり根が深い問題ですね。こうしてみると教師への暴力は家庭で反抗する機会を奪われたがための代替行為であるのかもしれません。

さて。それではどう教師がこれに関わっていくかという問題です。

日本の場合、教師は学習面・生活面の両方を面倒見ようとする総合的な「指導」を伝統的に行ってきました。教育学者の間では「ホリスティックな教育」と呼ばれているようです。これまで現実的に「子どもの問題はすべて教師の指導方法に問題がある」という見方がなされることが多く、教師がその責任の矢面に立たされてしまっている面があると思います。指導不足、は完全には否定できないとは思いますが、もともとの原因は家庭での問題に収斂されるべきものでしょう。だからすべてを教師の責任にするのはお門違いだと思われます。

#ちなみに英米では学習と学級経営が教師の主な職務だとされ生活指導まではあまりやられていないのと比べると、日本の教師はいろいろな職務を全うしなければならず、非常に多忙であることが指摘できます。

しかし学力も人格も育てるのが日本の伝統的教育スタイルであり、その職務のなかでいかに暴力行為や反社会的行為を抑えるかを指導で実現していくことは今後も必要です。やるからには責任をもってやれ、という論理ですね。この意味で、「女王の教室」の阿久津先生は自分なりの観点から学力はもちろん、生徒指導を行っていたと言うことで私は高く評価できるかと思います。彼女を見ていて参考になったのは、なぜルールを破ってはいけないか、その理由をちゃんと生徒(小学生だから正しくは児童)に示していること。最初の方はたしかに理不尽に見えましたが、回が進むにつれ、一貫した姿勢を通して生徒自身に自らルールを守る意義を考えさせ、受け入れさせました。やみくもに「守れ」と言っても聞かないのは目に見えてわかっていた。だから自分が壁となって一貫して「世の中の厳しさ」を言い続けた、というのが私のドラマの感想です。とくに途中「カッターを手で受ける」というシーン。あれが一番鮮烈な模範になったのでは、と思います。

さすがにカッターの件は演出的に大げさな描写かもしませんが、佐世保でも女子児童が殺傷される事件が起こっているし、きわめて現実的な問題です。改めて、現職の先生は「教育のプロ」として時代の流れのなかで出てきた社会病理の課題に取り組む必要がある。むしろプロだからこそ、親御さんにアドバイスする立場に立ってもらいたい。文科省のコメントで、「教員が子どもを注意深く見るようになった」とありますが、これはその姿勢が一部現れてきているのではと見ています。

まとめると、まず子どものしつけは家庭でしっかりなされるべきです。ここを基本として、それでも今のどこか病的な世の中では限界あるから、足りない分は教師がその職務として全うする。このほどスクールカウンセラーも文科省が導入決定しましたし、一部ですでに導入されている学校もあります。教師は大変多忙なので、その職務を補完する形で行うことが、これからも広く求められると思います。

補足として、そういった制度をうまくまわすために、制度をどう運営していくか、どうそういう専門スタッフと連携していくか具体的な研修を行う必要がありますが、現職の教師はとにかく多忙であると聞いています。時間の少ないなか、効率をあげて実施できるように、そのノウハウも合わせて各学校で諮られるべきでしょうね。

なお私は院生で研究者やマスコミの語る教育言説を分析しがちで現実からみると「机上の空論」になりやすい立場にいます。そのことをしっかり留意して、この記事を締めさせていただきます。

| | Comments (3) | TrackBack (1)

July 27, 2005

八街少年院 訪問記 その2

今回は少年院の一般的な概要とそこで行われている矯正教育内容、および私の思うところについてです。

§2 少年院の概要・教育内容について

少年院は全国ほうぼうにあり、施設ごとに男女の別、年齢別、罪の重軽度、知的障害の有無などでそれぞれ該当するところに入所します。各少年院で教育内容が異なり、入所期間も短期(半年以内)もしくは長期(2年以内)と家裁からの勧告を尊重して決定するそうです。八街の場合、16歳から18歳の男子で、知的障害が無く、罪の重い少年達が入所し、平均収容期間は11ヶ月間とのことです。この期間の内訳は、最初2ヶ月・新入時教育、その後6ヶ月間・中間期教育、最後社会復帰に向けて3ヶ月間・出院準備教育となっています。少年院一般の指導内容は「生活指導」「職業指導」「教科教育」等ですが、どれを行うかは各少年院ごとで異なります。特に八街は重い罪を犯して入所する少年が多いことから、「生活指導」中心の教育を行っているそうです。またここでは教科教育は行われていませんが、中には別の高校の「分校」という扱いの少年院もあり、通信過程として本校から教員が訪れ教科教育を行っています。(例として喜連川少年院など)八街の場合、職業指導に力を入れており、アーク溶接など国家資格を取得させる教育を行っているとのことです。

少年院で行われる具体的教育内容で特徴的だったのが、まずロールレタリング。加害少年が被害者に手紙を書き、今度はそれに対し、被害者の立場で手紙を加害者である自分に向けて書くというもの。こうすることで罪の意識を再確認させるそうです。またもう一つ具体的な教育内容として興味深かったのは、情操教育としての「ハムスター飼育」です。少年院は一般的に長くても2年。入所した少年に子どものハムスターを育てさせ、愛情が移ってきたところでハムスターはこの収容期間内に寿命が来て死んでしまうそうです。そこで自分の犯した罪を振り返らせる。こういった教育がなされているそうです。

これらの少年らに共通するのはやはり規範意識の乏しさです。きわめて自分勝手である、と院長は述べていましたが、感情のコントロールや統制が取れない「未成熟」な子どもであるとのことでした。実際、入所前は自分個人・自分本位で生活してきたことが多いそうです。このため本来であれば身についているはずの規範意識を掘り起こし、育てるためにまずはじめに集団行動訓練を行う。あいさつ・返事、これらも徹底的に指導する。ここでは世間の一般教育で言いづらくなってきた、これらの「基本的」教育、というより「しつけ」が有無を言わさず実施されているようです。

統計によると、年間で少年事件として27万件が立件され、少年院送致決定が下されるのは約5000件。従来は何度も非行が改まらなかった少年が入所してきたそうですが、近年は普段は普通のはずの少年が大きな事件を引き起こして一発で少年院に来る事例が増えているそうです。たしかに報道される少年事件を思い起こせば納得できます。

原因としては考えられるのが幼児期から今に至るまでの間になされた「虐待」です。幼少期に虐待を受けた少年が半分近くおり、それが少年を非行に走らせる原因だと思われる、と話されていました。現代という時代を考えると、社会で働くということはストレスといかに付き合うかということになりますが、親はそのストレスを、子どもという弱くかつ身内で外に漏れない存在にぶつけてしまうことが多い。ここに原因があると思われます。改めて子どもへの虐待は未来の非行を生むということを経験知として広く認知させることが必要だとつとに感じた次第です。

また少子化の影響もあってか、最近よく指摘されるのが親の「溺愛」と「過剰期待」です。前者は子どものことをすべて親が不自由なく面倒見てしまうことで、家の中では王様、しかし外ではそれが通用せず孤立化し、社会と適応しにくくなっていくという現象が露見しているそうです。また後者は親から過剰に期待をされ、常に緊張状態でおり、それから逃れるためにわざと病気になったり、あるいは集団を作って非行に走るケースが多いとのこと。これらは極めて普通の子が突然事件を起こすという背景にある程度共通して見えるそうです。

もちろん少年自身の犯した罪はその少年の犯罪や罪への自覚が足りなかったために起こったもので、少年自身に責任があるのは言うまでもない。しかし、その根本原因はすぐ上に挙げた現代の親病とも言うべき行為にあります。ここはどう子どもと付き合うか、こちらも認知されなければならないでしょう。

・・と書いてはみるものの、いつも思うけどこういうことを言うだけなら簡単。ではどうすればそれが達成されるのか。それを考えていかないとね。

以上、§1と§2と合わせて長々と書いてしまいました^^。それでは。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

八街少年院 訪問記 その1

大学院の授業の一環で(というより教授の社会的地位と権力のおかげで)、普段ならまず行くことのできない少年院を訪問することができました。場所は千葉県の八街(やちまた)にある八街少年院。八街は千葉駅から3両編成・ボックスシートの総武本線に乗って約30分、九十九里浜に程近い田園が広がる街です。今回はその訪問での感想や思うところを書きます。

§1 少年院の施設について

少年院へは駅からタクシーで15分ほど。しばらく大きな道を進み、そして小さな道に折れ、さらに農道のような小路に入ったところにようやく見えてきます。街中から相当離れた場所。途中、案内板はひとつもありませんでした。唯一、「少年院入口」というバス停があるのみ。

まず玄関に入るとそこは院長や事務職員のいる管理棟で、会議室にて院長から「少年院の概要」と「更正にいたる教育の内容」などの話を受けました。いただいた法務省作成のパンフレットに載っている少年院の教育風景では、写真はすべて少年の後ろ姿で顔が見えないようになっています。ちなみに院長はワイシャツ姿でしたが、その他の法務教官は薄い青紫の作業着のような制服でしたね。(こんな例で恐縮ですが、イメージは『銭金』のサポーターです)

その後、法務教官の方の引率でこの建物の後方にある矯正施設へ。少年院という性質上、配置の細かな描写はしませんが、学校にあるような処々の施設のほか、炊事場、寮、作業所などがありました。この中で寮坊は個室でも4畳ほどの狭い部屋で、窓には鉄格子。扉を閉めたら中からは開かないようになっており、このためトイレも個室の中にあります。また冷暖房も普段はまったくなく最低限、必要なときだけ使用を許可するとのことです。また食事に関しては、おかずも1人1日500円程度とのこと。これらから「国民の税金での運営」を意識したものになっているという感想を持ちました。

途中、別の建物から寮に戻ってくる少年を遠めで見ることができました。運動をした後のようで、泥だらけの服に号令に合わせて足をそろえて歩いていく後ろ姿に思わず見入ってしまいました。

見学終了後、管理棟に戻るとき改めて気づかされたのですが、施設のまわりには3メートルの高さの金網とその上には施設の内側に反り返る有刺鉄線が。ここに「外界」への壁の高さを感じました。また見学中、法務教官の一人がずっと我々の後ろに立ち、不用意なモノの持ち込み、忘れ物、また出入りした後のドアや扉の戸締りなどを厳重に確認していたことも記憶に残っています。

私がこの施設の中で最も印象的だった場所は、人を殺めてしまった少年が悔い改めるための「内省棟」という名の小屋です。中には法要を行うための仏具が置かれ、被害者の命日にはお坊さんを呼んで少年の親族とともに祈りを捧げるとのことです。横にかけられていた千羽鶴も目に焼きつきました。また建物の標札も罪を犯した収容少年がぜひ僕に作らせてください、とのことで作ったものとか。これを作った少年の心境はいかばかりか。

あと少年院の柵の外に目を向けると団地のようなマンションが建っていました。少年院の前に住んでいるということは・・と思って聞いたところ、やはり官舎で、法務教官など少年院関係者が入居しているそうです。理由はもちろん、何かあってもすぐ駆けつけることが出来るように。なお官舎には強制入居ではないそうで、他で家を借りたり建てても問題ないとのこと。もちろん業務に支障が無い程度のところでないといけないとのことだそうです。

最後に、法務教官を目指す院生の友人が現役の法務教官にこの仕事のやりがいをたずねたところ、「正しい方向に向かって成長する姿に喜びを感じている」というお話をいただきました。官舎もすぐそば、6日に一度宿直で泊まり勤務。ほぼ24時間ずっと少年のことを見続けられるのは、きっとその喜びを何より大事にしているからだと思いました。

§1は以上、次回は少年院の概要と教育内容についてです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

July 14, 2005

『ドラゴン桜』1巻の感想

大学そばの本屋で『ドラゴン桜』1巻を立ち読みして、考えさせられる部分があったので今回はそれについて思うところを書きます。勉強し始めてまだ半年で変に自分の思い込みを作りたくないからこれまでも教育関連のことで提言的なものを書かないようにしてました。が、思うところをちょっとだけ。

この『ドラゴン桜』という漫画、導入部分の簡単な内容は以下のとおり。

私立の底辺校が倒産の危機に立ち、主人公である弁護士が民事再生法の適用をして再建計画を立てた。そこには特別進学クラスを設置し将来的に東大に100人、まず来年度に1人合格者を出す。この方針にもともといるその高校教師が「絶対不可能だ」という反応はもちろん、「学校は個性を育てる場である」とか「教育に競争原理を持ち込むな」など倒産寸前なのに関わらずキレイごとを並べ教師組合が革マルの団交のように対抗する。そして特別進学クラスの担任には結局どの教師もつかず、その弁護士本人が就くことになる。生徒は2名。どちらも問題児。それぞれに「東大に行けば人生が変わる」と豪語し、東大は理科一類が最も入りやすいことを科目の配点、合格者数、倍率から理論的に述べ、出来る限りの受験テクニックを投入して東大に合格させようとする。とりあえずお前等を東大に合格させる、でもその後は知らん自分で考えろ、というまずは導入部分。

ここで描かれているのは、高校は大学合格実績で評価が劇的に変わるという現実をちゃんと指摘していること。いくら個性重視とか並び立てても大学合格実績に勝るものはありません。これはまさに正論。どんなに人格的によい教育を行ったってベースに合格実績がなければ世間からは評価されない。まあ有名人が「あの学校はいい」と薦める場合は例外でしょうがまずありえない。そしてそれがわかっていながら直視しない教師たち。そんな教師達が逆に「個性育成」、「競争原理反対」と判を押したように叫んでる。この漫画では非常に滑稽に描かれています。面白かったのは主人公が「じゃあお前が考える個性って何だ?」と教師にツッコみ、教師はこれに答えられないんですよね。あー実際そうだろうなぁ^^。聖職者イデオロギーみたいなものに汚染されてるだけで何も考えてない。

私が嫌いなのは、言葉の響きの心地よさに埋もれてその中身を考えようとしないこと。そして考えようとしないやつら。前にも書きましたが、例えば「音楽は平和を作る」などの耳障りのよい、心地よいキャッチコピーにのっかって、さもそれが前提のように妄信する人が世の中にはごまんといる。こと教育に関してはこのような「言葉の聖域」が多いなぁというのが小生の意見。「個性」「人権」「男女平等」「道徳的配慮」・・枚挙にいとまがありません。。現実的に学校の企業化が進まないのはこのようなイデオロギッシュな部分の抵抗があるからだと思っています。現代においては経営あっての学校だろ、経済安定あっての教育だろ、と常に考えているのでこの主人公が問いただす部分は非常に同意できるなぁと思いました。

ただこの漫画、学校の問題点を指摘するには長けていてもやはり尻軽な、底の浅い漫画だなぁとも思います。東大合格というコピーは底辺校にいる人間を奮い立たせるにはよい宣伝文句になるけど、結局東大行ったからって人生変わるとは到底思えないから。現に同期や顔なじみで就職できない奴らもいますからね。。でも、やはり「底辺校」に在籍する高校生というと統計的には社会的に下層の階層に属することが多い。その中から自らの社会階層の上昇、ひらたく言えば自分の現在の苦しい環境を抜け出すという観点で見れば知名度の高い企業なり職業なりに就く機会が飛躍的に増えるわけだから、東大に行けば道が開ける、という「神話」は彼らにとってあながちウソとも言えないかもしれません。でも、「本当に必要なのは詰め込み教育である」とこの漫画は登場人物に言わせていますが、大きく見るとその教育が前述の教師のように言葉にだまされる人間を生む原因でもあるのでは?と思ったり。

ともかく、この漫画にはあまり深い読みをせず、淡々とストーリーを追って楽しむのが一番いいと感じました。

| | Comments (3) | TrackBack (1)

June 24, 2005

教育社会学への私的考察

大学院に入学してはや3ヵ月。仕事しているときも時間が経つのは早いと感じていましたが、院生になってからもやっぱり早いです。よく聞く話ですが、年齢の逆数がいわゆる「体感年数」っていうやつですか。つまり3歳の子の1年は1/3の重みがあり、26歳の私の1年は1/26の重みしかなくなってくるという・・。私がいまの2倍生きて52歳になったら、いまより2倍早く月日が過ぎるんでしょうか?想像つかんな・・

さて、4月からずっと勉強をしてきたわけですが、世の人が想像する純粋な「教育学」ではなく「教育社会学」や「教育行財政学」などなどを勉強してます。私の場合、教育を政治学的に見て、誰が影で教育政策を動かしているのかそのパワーの源泉を突き止めちゃる、というタクラミがあり、そのための正しい現状把握と解明の一助となる理論の勉強をしています。週4、5冊くらいのペースでけっこう文献読んでっかな。正直、文献ムズかしくてナナメ読みです^^

さて教育社会学の一番のテーマは(私が思うに)「階層分化」というものです。すなわち、貧しい階層にいる人は大学などの高等教育機関を出ることで富裕層に移動できるというのがいわゆる教育の効果のひとつですが、近年の自由主義的資本主義がますます所得格差を広げつつあり、かつ日本もそうであるように大学を出てもいまや就職すらままならない状態になっている。となれば階層間移動は起こるべくもなく、富裕層は自己保守で次の時代も自分達の子孫が優位に立てるように教育システムをきわめて「合法的」に捻じ曲げていく可能性がある。となればもはや教育は階層移動の希望とはなりえず、所得格差はますます増大し、生まれ落ちた時点でそもそも競争の基本的土台にたてないことになる。「社会階層の再生産」がされる、ということです。

専門的ですが、ブルデューやバーンスティンを読め、なんてアドバイスをもらい再生産が行われる理論を彼らの書いた本を読んでかじってみました。どちらもかなり有効な理論ですが、さすがに完全に一致する理論ではないようです。でも今までやってきた政治学の視点ではこういう「再生産」なんて考え方には知りえなかったので、ここは勉強してよかった~と感じる部分でもあります。

思うのは、教育的効用をだいたい資本主義という経済形態が阻害していることを指摘する文献が多く、教育学関連の学者さんはマルクス主義に影響された人が多いという印象を受けました。政治学科の人間はもはやほとんど見向きもしないでしょう(特に○弁会のやつらはね)

どうなんでしょう?真に理想とする教育を追い求めて生活の土台となる経済形態の変革まで主張するのが本来の姿なのか、あるいはいまさら資本主義経済の構造は崩せないからその中で最大限の効用を得るように教育を考えるのがベストなのか。まあ現実可能性のある政策研究をするという観点では後者を考えるべきなんでしょうけど。

いずれにしろ、まず大きな青写真というグランドデザインを描いてからそこに至る過程を考える、と言うのが研究のやり方のひとつなんだな、と実感した次第。とにかく、まだまだ読まなきゃいけない文献が多すぎです。。

ちなみにいまアレントやハーバーマス、フーコーやアルチュセール、マルクスはもちろんこれらの思想界の巨匠の思想内容を解説書とにらめっこして覚えようとしていますが・・社会思想ってなんでこんなとっつきづらいんやろ??

そんなに難しくせんと、もっとわかりやすくして♪

| | Comments (2) | TrackBack (0)

May 27, 2005

教育原理とは。

教育原理の授業を受けてきました。本来であれば学部時代すでに単位をとったのに、教員免許を取らずに卒業してしまったことが仇となり、サラリーマンをやっている間に教職の法律が変わってまた取り直しになってしまったという因縁部深い教科だったりするわけです。だったら6年前(大学2年生)のときと同じ先生の授業を取ったる!ということで4月より授業を受けています。内容は・・・6年前は「ソクラテス」とか言ってたのに今じゃ『大村はま-96歳の仕事』という本で衆目を引く大村はまさんについて語ってたりしますもんね。毎年授業は同じじゃないんだと、ちょっと感心しました。

その教育原理で30分ほど「教育原理とは何か?」というレポートを書きました。時間も少なかったから思うところを一気に書いてしまいましたが、自分の意見が集約できたものになったので、もう一度文字にしていつでも取り出せるようにしておこうと思い、アップさせていただきます。

教育原理を述べる前に、教育の目的について述べたい。教育の目的はフランスの教育学者のデュルケムも述べているとおり、子どもを「社会化」させることにある。そしてその子どもが自分の能力を生かして社会の中で望むように生きていくことができるようにすることである。そのために教育を行う者は子どもの育つべき未来の姿を想起しつつ現在の姿とのギャップを見極め、そこに適切な指導を加え目標とする姿に近づけていく。もちろんその中で教師の描く未来の姿と子ども自身が描く未来の姿は当然異なってくるわけであり、教師は子どもが自ら未来の姿を描くようになり、それに向かって自ら努力することができるようになれば、指導・引き上げという教育方法を改め、支援・サポートという別の教育方法に移行していく。このようにして、生徒の発達段階を見極めながら教師自身も教育方法を科学的に決定していき、「社会化」を達成していく。

この中で教師は生徒の何を育てていくべきか。人間が社会化するにあたっては次に挙げるものを育てる必要がある。それは伝統的に使われる表現であるが「知育」「徳育」「体育」の3つである。「知育」は「知識」、「徳育は「知恵」に置き換えて考えてもよいだろう。前者は学問的な科学的根拠をもった知識の獲得を目指すものであり、後者は特に倫理観、宗教観、人生観など人間の内面に関わる部分の育成を目指すものである。この2つの関係性は相互連関的だが、前者が育っている場合でも後者があまり育っていないことがあるなど、場合によってアンバランスな構造となることもある。このような場合、得た知識によって倫理観を無視した行動を起こす危険性を有する。このため知育と徳育は双方まんべんなく育てていく必要がある。また体育も知育や道徳を身体的にを生かすという点でもちろん同じように育成が必要である。これら3つを教育して子どもが自己研鑽をするように「主導権」を渡し、徐々に教師主体の教育からの脱却を図るのが教師の仕事である。

まとめると、教育の目的が子供の「社会化」にあるわけだが、具体的には知育・徳育・体育の育成をする必要がある。ここで教育原理とは何かを考えると、教育原理とはまさにこの部分ではないだろうかと考えている。すなわち、倫理観を身につけさせ社会で生きる自己のベクトルを決定させ、そして知識を蓄えていき自ら考えるようにさせる。教育の目標に向けてその根本的基礎となる科学的定理と精神こそ「教育原理」ではないかと考える。

教育者として大変有名な大村はまの例を見てみると、彼女は国語教師という立場から、子ども一人ひとりに異なる国語の教材(主に作文)を作成し、自ら伸びようとする子どもの意欲を掻き立てた。そこに至る経緯をたどると、まず彼女自身の伸ばそうとする精神が子どもに向けられ、そこからどのようにすれば成長していくかを試行錯誤し、結果「一人ひとり異なる教材」という方法を見つけ出した。それを子どもにやらせてみると、まるで何もまわりが見えなくなったかのように子どもはその教材に向かっていった、という。普段まったく全員が同じ教科書を使っていたならば、子どもはそれぞれ「見えない障害物」に ぶつかり、自ら伸びようとする意欲がそがれてしまうかもしれない。大村はまはその危険性を個別教材という形で排除したわけである。ここからみて、子どもに向かう精神、科学的定理こそ教育において何より重要な土台となる「教育原理」なのだと考える。

こうしてみると、教育原理(というより教育行為はすべて)はまず教師自身の精神から始まっている。精神をもとにしてそこから具体的な教育施策を広げていく。まず何より必要なのは教師自身がしっかりとした社会認識や倫理観を持たなければならないということであり、その上で子どもに対し自信を持って進んでいくべき方向を自ら定めること。それから教育原理の柱が貫かれる。

教育原理とは教育の目標に子どもを向かわせ、自ら向かっていくための核となる精神である。

以上。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 14, 2005

学校をPCにたとえてみる。

学校制度、授業、教師、生徒など、学校を構成する諸要素の関係性をわかりやすくとらえるモデルみたいなものはないかなぁ、と数ヶ月前まだ勤めていたときお客さんに出す資料をPCに作成しながら考えていましたが(仕事しろよ、と突っ込まれそうですが^^)、ふとPCそのものをよくよく考えてみたら「あ、似てるやん!」と思い立ちました。以下、私の(勝手な)仮説モデルを提示します。有名になったらheinrich原作だと思ってやってください(笑)

それぞれを以下に例えてみます。

  1. 学校・制度 … パソコン本体であるハードウェア
  2. 授業 … Microsoft Officeなどのソフトウェアおよびアプリケーション
  3. 教師 … ハードとソフトを結びつけるOS(Windows)
  4. 生徒 … ユーザ 

現在教育に求めている人間像は「自ら考え行動していく人間」であることは言うまでもないですが、この意味で、生徒は学校で学んだことを生かし、何らかの「作品」を作り出そうと独力で努力する姿を前提にしてモデルを組み立ててみました。このため先生は生徒にPCの使い方を教えるという存在ではなく、あくまで学校と授業を円滑につなぐ役割としてのOSの機能を割り当てています。実際、先生は「学校」を教えるものではなく、「授業」や「指導」を通じて生徒を育成していくものです。詳細に述べれば、授業で各アプリケーション(Word、Excel、PowerPoint、Accessなど)の使い方を学び、最終的に生徒はそれらを組み合わせて作品を創作していく。これが個人個人異なる進路と結びつきます。

ここでポイントは、当然ソフトウェア(=授業)はハードウェア(=学校)とOS(=教師)がなければ動作しない。両輪のどちらかが欠けても動かないわけです。また両方がそろっていても、ハードが現在のアプリに対応するにはそれなりのCPU性能を持ったマシンでなければなりませんし、OSもアプリとのバージョンが合っていなければ本来の成果は発揮できません。このためアプリが進化するならハードもOSも進化していかなければなりません。

このように、諸要素が連関して学校を形成していることをどうにかモデルに当てはめてみました。もちろん諸要素の機能を限定してしまっていることは問題ですが、ひととおり現代における教育の役割とその関係性をあらわせているのではと思っています。

このモデルを組み立ていて、まさに今まっさきにやらなくてはならない教育改革が見えた気がします。それは教師の改革。OSのバージョンアップです。

これまで、学校(=ハード)は「ゆとり」を意識して週休2日制など制度的に変革が行われました。授業(=ソフト)も「総合的な学習の時間」を導入したり様々なカリキュラム改善が行われてきました。でも、実際にその環境で授業を受けた生徒に対する評価は上がったか?といえば、答えは間違いなく否でしょう。これは学校と授業と生徒をつなぐ教師(=OS)が旧態依然のままであるからです。思い返しても、今まで大きな教員改革が行われたことはなく、強いて言えば教職免許法で取得に必要な単位が増えたくらいでしょうか。だからこそ、現場の教員改革が必要だと思われます。

もう一度、今度はテクニカルに。Pentium M というモバイル環境に合わせた(=現代の週休二日制の流れに合わせた)CPUを載せたマシンを用意しても、たとえ最新版のOffice 2003(=新しく編成したカリキュラム)を準備しても、それをコントロールするOSがWindows95だったら?

そもそも日本におけるOS(=教師)は、Microsoft(=日本の教職システム)が作った「優秀」なものなので動作はたしかにするでしょう。動作はしますが、その動作は本来プログラム設計者(=文科省や政策立案者 policy maker)が意図したようには動いていないかもしれません。ハードとソフトに合わせ、またなによりユーザに合わせてOSもバージョンアップをしていかなければなりません。

たしかにハードの面で「ゆとり教育」から「確かな学力」という方向転換が行われつつありますが、従来でも「ゆとり」と「学力確保」の二軸を絶えず行き来してきた経緯もあります。いわば変わるべくして変わった、と言えなくもない。これに比べて、教師・教員改革はまだほとんど行われていないわけです。手を打つべきはここなのでは、と考えます。

現在、免許更新制など議論されていますが、具体案になかなか落とせてない状況ですね。教員は各都道府県の教育委員会が採用しているわけで、教育委員会の中で「不適格教員」の転籍雇用のための仕事のポストと財源の確保ができれば理想なのかなぁ、とおぼろげながら構想を練ってみたりしています。あまり声高には主張できませんが、公務員と言えど民間でこれだけリストラの嵐が吹き荒れている時代には、不適格教員あるいは問題教員には退職勧告とはいかないまでも現場の裏方にまわってもらうくらいの政策を行う覚悟が必要なのでは。

(追記)

元東大総長の参議院議員である政策立案者側の有馬朗人氏は、「現場の先生が新しいカリキュラムの狙いを伝えきれていないからダメなんだ」という発言をしています。この言葉を聞いて、私は思わず某F通の前社長の「社員が働かないから業績が上がらない」発言を思い出しました。そりゃ現場に責任をなすりつける責任転嫁ってもんだ。それならば、なぜ意図通りに動かなかったかを反省して分析してくださいって。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

May 12, 2005

Globalization & Education Policy

授業での、「グローバリゼーションが進行する中での政府の経済政策と、それにベクトルを合わせる教育政策の是非」の議論で気づいたことについて。

「日本が経済でアメリカや韓国や中国に負けて何が悪いのか」ということを平気で言ってくる輩がいました。個人的に正直驚きです。

もし負けたら。

私はグローバリゼーションを「企業の死活問題」だととらえています。例えば私が以前にいたIT業界で言わせてもらうなら、従来国産ベンダだけだった国内市場にDELLのような外資が入り込んでいる。世界市場を抱え在庫をほとんど抱えない「DELLモデル」に国内ベンダは価格面ではまず勝算が見込めない。どんどん今までのパイがとられていき、この状況が続けば業績の悪化はもちろん、最悪倒産することも予測されます。倒産までいかなくともまずリストラなどの構造改革を行い、大幅な雇用体制の見直しが実施され、従業員は解雇や転籍による所得の大幅減少とつながっていく。要するに個人の生活を直撃するわけです。

また現代において、企業同士は密接に結びついている場合が多く、特に大手のIT企業で言えばATMに代表されるような社会インフラの構築から整備・メンテナンスまで手がけており、ひとつの企業の倒産が社会に与える影響や損失は計り知れないものになっています。そしてそれを政府がケアしないと世界の市場から非難を受け、日本経済の信用性が低下し、より多くの業態の企業に損害が及ぶ。経済における連鎖はどこまでも続くと思っています。

だからこそ国内ベンダを保護しグローバリゼーションへの経済政策を進めるのは政府・国家として雇用の確保、個々人の生活の保障という点で重要になってくる。所得がなければ教育はおろか生死に関わる問題になるわけだから。私が感じたのは、どうも経済政策を自分達があずかり知らない「国家という王様がマネーゲームを楽しむ姿」のごとく捉えている学部上がりの院生の認識の甘さです。そもそも自分達の学費は誰が払っているの?パパやママやろ?その会社が潰れてもええんかい?どうにも自分達の問題と捉えきれない人間が多い。

ちゃんと指摘して一応納得してもらいましたが・・

教育それ自体もちろん重要なのは重々理解しています。でも教育は、現代においてはある程度生活の安定性が確保された上で行われるべきだと考えています。そうでないと人間の育成において十分な成果が望めません。所得の大小が教育の効果の大小と密接に関係してくることは多くのデータから検証されていることです。経済政策の重点化は当然行われるべきものとして納得しなければならない。

ただ、だからといって教育政策にも経済目的をとにかく強調するのは問題があります。そこには個性を無視した押し付けの政策が生まれかねません。とかく最近は中山文科相の「ゆとり教育は失敗だった」発言のとおり、政治家個人の発言がそのまま政策として反映されるような「政策決定のアトム化」が進展していることもあり、科学的な根拠もないまま「想い」だけで政策が組み立てられかねない。もっと人間的な部分を育成した方が結果的によいのではないでしょうか。こういった部分を研究をしている研究者・文科省の役人は多いと思われるので、それらとぜひ検証を行ってもらいたいと願っています。

ちなみにアメリカの公教育は初等・中等教育において、学力面でもモラル面でも日本に劣るという検証がされているそうです。経済超大国アメリカの意外なパラドックス。いわゆる経済を引っ張っていったり科学技術分野で先導していく人材は、そのほとんどが private sector から育ち、ハーバードやMITなどを経て社会に貢献していくというルートがほぼ確定しているそうです。まあ、企業においても社員の一割にも満たない企業内エリートのみが利益に貢献している、という経営学的な分析もあります。こんなことを言うとかなり危険ですが、こと経済においてはエリート育成に資源を集中投下する方が手っ取り早く効率的なのかもしれません。ただ日本でこれをやるとすぐ「差別」とか言われますからね・・

このアメリカの事例なども検証してみることが必要だと考えます。今回は以上で。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

April 21, 2005

文部科学大臣の謝罪

中山・文部科学大臣が「ゆとり教育」についてちょうどその教育を受けたいわば「ゆとり教育世代」の生徒に向けて、「こんなことしてすまんかった・・稚拙すぎた」と言いましたね。具体的な対象世代は近年の3ヵ年ぐらいになるのでしょうが、とにかく感じることは、政治家と官僚の間でこうも調整がうまくいかないのは何でだろうってことです。こんな短期間で見直しがされるならやる意味なんてほんとにないやん。私は最初から反対でしたけど。

検証すべきは2点あると思っています。

まず、1点目。「教育は自分が受けてきた教育を正当化しやすく、きわめて個人的な見解でものを言う傾向があること」です。文相の発言は文科省の総意なのか?文部官僚はこの発言を素直に受け入れられるのか?ここらへんは政治家vs官僚という図式もさることながら教育問題における政策立案者の発言の傾向を分析する必要があります。

次に2点目。「たった3年で正しい評価を下せたのか?」ということです。学力低下を表す資料として使われるのが例えばPISA(ピサ)という国際共通テストなのですが、そのテストはたしかに年々国際的順位を下げていく傾向にあります。でもゆとり教育って「生きる力」とかそもそももっとその先の将来に焦点を当てた政策ではなかったのか?であれば官僚は本来なら文相を巻き込んで「それでも結果を出す」と言わせなければならなかったのでは。どうやら順位の下落はこの理論を圧倒してしまう力を吹き込んだようです。果たして教育の成果をやれたのか?そこが問題ですね。

大きくはこの2点が焦点になるのかなと思います。

しかし教育政策って誰が作ってるんだろう?この解に「文科省」とか「内閣」という組織を挙げることは、いくらなんでも大人なんだから止めましょう。「誰か」のレベルまで落とし込まないと。要はその人のバックにどんな勢力がいるか、どういう利益を代表しているか、きっとそこまで解析しなければ。。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

February 06, 2005

小学生からZ会

小学生からZ会~♪
小学生からZ会~♪
東大、京大、早稲田、慶應
すいすい合格Z会~♪

最近よくCM流れていますね。
Z会は、これまで大学受験講座で有名でしたが、これが上記のとおり、小学生コースを新設するそうです。その知名度を生かしてついに小学生・中学生の囲い込みに出る経営戦略に打って出た、ということでしょう。これに関連してヒトコト言いたい。

Z会こと増進会ホームページ
http://www.zkai.co.jp/home/

まず、このCM作戦は成功すると思います。これだけ学習時間が少なくなって公立学校は大丈夫か、と言われている中で、多大な大学合格実績を持つZ会であれば最終的にそのまま継続するならいいところの大学に合格できるんじゃないか、というほのかな期待感がありますから。受験産業における一種のブランド力ですね。

この業界、私とは他業種なので楽観的に見られますが、ベネッセとの競合が何より面白そうです。これまでベネッセ(というかチャレンジ?)は小・中学生がやはりメインで、同様にZ会も大学受験生がメインだったという感がありますが、少し前からベネッセもだんだんと大学受験講座に力を入れはじめ、お互いの棲み分けゾーンを侵犯しつつあったと思います。そうしたら、ついにZ会もベネッセの領域に土足で踏み込んできた。どちらの会社も事業内容は小学生から高校生の大学受験、その他生涯学習までかなり広範にやっているので、学年の早いうちから囲い込み、科目数や講座数が増え、より利益のあがる大学受験講座まで使ってもらおうというつもりでしょう。

なんだか携帯の「au」の学割と作戦は似ている気がします。「学生半額」というキャッチフレーズで生徒・学生に新規で登録させ、そのまま学生時代携帯を使ってもらい社会人になって番号がなかなか変えられなってもそのまま機種変更というかたちでauを使ってもらおうという作戦ね。まあ再来年あたりに総務省が認可を出せばキャリアを越えて機種変更しても番号はそのままになるという話も聞いているので、こうなった場合現状のシステムの再考が必要になるでしょうが。

このZ会の戦略をヒトコトで言うなれば、「ブランド力を生かした早期からの囲い込み戦略」だと言えるでしょう。企業戦略としては非常によいと思われます^^

その他最近、学習時間が減ってることを受けて様々な学習塾が攻勢をかけてきていますね。例えば電車の中吊り広告に出ている宣伝文句を見るのが最近楽しいです。栄光ゼミナールは面白いですね。ちょっと前は「合格してぐちゃぐちゃになろう」とか。AERAの、最近の時事を皮肉にシャレた文句とともに要チェケです。

さて。ここまで書いてから本題はここから。
サブタイトルに「会社と旅と教育と」と書いてあってまだ教育を書いてません(笑)
以下に私の教育論を書きます。

東大、京大、早稲田、慶應?
Z会がこれを謳い文句にするのは、ひとつの企業としての公約として捉えて、問題はありません。が、これらの学校に入れることが「教育」の大きな目標だと親御さんが刷り込まれて認知してしまうのがかなりコワいなぁと思うのです。特に自分がそうでなくて、子供に期待を寄せている親御さんには特に・・。これらの大学を出て、結局何ができるかと言ってぶっちゃけ何もできません。切実な体験談です(笑)これらの学校に入れば道は開けると思うのは間違いで、単にこれらの大学は将来自分がなれる職業の幅が若干広くなるぐらいなものだと思います。そしてその前に、なりたいと思う職業に向けて努力したりやりぬく精神力を身につけないとせっかくの応募資格がムダになるわけですし。

この点、現在の教育環境で怖いのは、「ゆとり教育」に反発して塾や上記のZ会やいろんな勉強ゴトをむやみに強制してしまうこと。そして結果、人格がゆがんでしまったり、やりたいことを見つけられずぶらんぶらんしてしまうことです。与えられるものをやっていればいいというふうになる。これは問題です。

私個人として「ゆとり教育」には断固反対です。そもそも勉強してものを覚えることができるアタマがあるのに、その間に知識を詰め込ませないのはほんとにもったいないし、また得た知識が更なる知識を呼び込み、結果的に文科省の言う「生きる力」が育まれるのでは?土台となる知識が不足しているのに自分で考える訓練を推し進めるって、ぶっちゃけ無駄です。知育・徳育・体育って言われるとおり、これらは三位一体でしょ。極端な例でバビロニア王国のハンムラビ王による楔形文字で書かれた「ハンムラビ法典」を知れば、徳育として「紀元前の昔から死刑や量刑っていう法律ってあるんだ、しかも目には目をって厳しい法律だったんだ」という認識が高まるわけだし、知識を強調しても強調しすぎることはないわけで、バランスさえ教師が意識していけば「ゆとり教育」なんて国家全体を上げて行う必要なんてないわけだ。

・・このあたりは本格的に語りたいので、また日を改めて書きます。
それでは。

| | Comments (0) | TrackBack (0)