October 09, 2005

「インストール」から考えてみる。

綿矢りさの『インストール』読みました。上戸彩主演で映画化もされ、かねてより読みたかったこの作品。大学の図書館にはむろんなく、本屋で買うにはハードカバーでお値段がちょい高め、そんなところに最近文庫本として発刊されようやく、です。文庫本は文字も大きめ、134ページの短編的な作品です。主人公である17歳女子高生のイマドキの生き方や考え方を、三島のように仰々しくなく、どちらかというと太宰のように「さらり」と「しなやか」な言葉でつづった、そんな作品です。

いまや彼女は芥川賞という作家として最も華々しい賞を受賞した美人作家。まだ教育学部で学生をやっているようだし、もしかしたら大学で私と同じ授業も取っているかもしれません^^ま、人に読ませる文章力や表現力は、もちろん私なんぞとは「月とすっぽん」であり、私が「すっぽんぽん」になっても適わないことだけはたしかですな(笑)

さて前置きが毎度のごとく長いのですが^^、ここで作品の冒頭にある文章を取り上げます。

まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の十七歳の心に巣食う、この何者にもなれないというかれた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握り締めることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気づいたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい。もう十七歳だと焦る気持ちと、まだ十七歳だと安心する気持ちが交差する。この苦しさを乗り越えるには。分かっている、必要なのは、もちろんこんなふうにゴミ捨て場へ逃げ出すのではなく、前進。人と同じ生活をしていたらキラリ光る感性がなくなっていくかもなんて、そんなの劣等生用の都合の良い迷信よ、学校に戻ってまたベル席守ることから始めなさい!光一口調で自分を叱ってみたが、しかし、やっぱり私は動けなかった。自分にはほとほと呆れ、仰向けになってさびれたコンクリートの四角の切れはしからのぞいている暮れかけの空を見上げる。

光一の言葉、時々母にも言われる言葉を思い出した。あんたにゃ人生の目標がないのよ。

巻末で作家の高橋源一郎が解説をしていますが、彼はこの箇所を取り上げ、思わず「完璧!」と赤でコメントを書いたそうな。「引用した文章を読んでもらいたい。句読点の打ち方も、書く文章の語尾も、もちろん中身も直すところがない。試しに、音読してみる。ほれぼれする。というか、ぞっとする。・・・」

・・なるほど。そういえば、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの斉藤孝教授も『声に出して読みたい日本語』で太宰治の『走れメロス』を取り上げてまったく同じことを書いていました。「文章のリズムの躍動感・・」。そういうものがある種の有能な作家にはあるようです。まあこれを意識して、あえて先に太宰の名を挙げたんですけどね^^

さて、このような「文学的なよさ」も取り上げたいのですが、私は内容に関する部分でこの箇所を取り上げたいと思います。

この箇所は、今の高校生が何に悩んでいるか端的にまとめられてますね。「他人と同じ平凡な人生はヤダ、キラリとした人生を見つけたい」、そして「必要なのは、前進」「それはわかってる、でも・・」。うーん、私にもなんだか懐かしいなぁ・・と思うところもありますが、今の高校生のあせりは私の比じゃないんでしょうね。芥川龍之介ではないけど、自分だけのオリジナルの個性的な生き方ができるかどうかの、「将来に対する漠然とした不安」。マスコミもこぞって「個性」「個性」と押し上げる。だからこそ、もがく。不安になる。常に急かされる。・・だからムリに大人びて「子ども」が背伸びして問題を起こしているんじゃないか。心や精神が未熟なのに追い立てられてたら、そりゃ「非行」もしますわな。そう思うんです。中高生の問題は、よく「お上」(文科省とか中教審とか)が言うような「受験」のストレスなんかじゃあ、ない。このあたり、彼女は非常にうまくつづってるなぁという印象を私は持ちました。

結局今の世の中、「個性」が一人歩きして逆に子どもを追い込んでいるんじゃないか。世間はまだまだ『世界に一つだけの花』に聞き惚れているかもしれませんが、ちょっと距離を置いて考えれば、この歌ほど「個性」を日本人に煽り続ける「悪唄」も他にないかもしれません。そもそも「オンリーワン」なんて幻想でしょ?みんなもそれを知っていて、でもそれを認めずただ自分を慰めたいだけじゃないの?・・なんてかなり天邪鬼になってますが^^個人への「エール」も、行き過ぎればただの苦痛にしかならない。

教師というものを考えるにつけ、時代のトレンドだからといってあまり一緒になって「個性」とか「自分らしく」と盲目的に言うのははたしてどうかなぁ、と思った次第です。中高生なんてまだまだ子どもだし。急かさず落ち着いた環境を敷いてあげることも、年齢相応の発達には必要なんじゃないのか、と思っています。

・・個人的な希望として、綿矢りささんには今度、大学を出て就職して2・3年後、そこでふと立ち止まった青年の気持ち、なんてものを書いてもらいたいですね。そこには私なんぞではとても表現したくても表現しきれない、心の「ひだ」まで浮かび上がらせる言葉があらわれると確信しています。

とりあえず、この次は『蹴りたい背中』を読みたいですね^^

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September 02, 2005

『ライ麦畑でつかまえて』

『ライ麦畑でつかまえて』  J.D.サリンジャー 著/野崎孝 訳

さて。政治からちょっと離れて。

夏休みだし普段読もうとして読めなかった本をここで読もう!と本屋で買ってきたこの本。先日の長崎路で読み終えました。今回はこの作品から印象に残った言葉(現代への讒言)を引用したいと思います。

まずこの小説の解説。もはや言わずもがなの名作ですが、今から50年以上も前、1951年にサリンジャーによって書かれた作品で、ハイスクールに通う少年、ホールデン・コールフィールドが大人になろうとする苦悩と葛藤を描いたものです。アメリカに限らず世界中でいまや「古典」として広く読み継がれています。

「少年が大人になろうとする苦悩と葛藤」?

・・・と言えば、かの村上春樹氏も自ら訳さずにはいられなかったんでしょうね^^(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳) 原文にも「性」に関する表現が何度も出てくるし、改めて思い返すと「村上ワールド」はこれに影響されたんじゃないかなぁ、とも思えたり。最近の『海辺のカフカ』でも15歳の少年の旅が描かれていますし、「ニート」「引きこもり」が顕在化する現代に対して改めてこの作品を通して村上氏も「昔から同じように悩んで生きてきた」ことを訴えたいんじゃないかなと、勝手に想像しています。

ちなみにこのタイトル、主人公が「つかまえたい」のか、それとも「つかまえられたい」のか。読んだ後考えると意外と面白いですよ^^

さて、現代の社会に出られないワカモノ(会社辞めた自分も例外ではないと思っていますが)にも共通する提言となっていると思われる台詞を引用します。主人公・ホールデンは単位不足で高校を退学に追い込まれ故郷の昔の恩師のところに来て、退学の原因をどうしても気の合わない先生やまわりの生徒のせいにしたことに対して。

「そうか―ヴィンスン先生だったな。いったんそのヴィンスン先生のたぐいを通り抜けてしまえばだ、その後は、君の胸にずっとずっとぴったり来るような知識に、どんどん近づいていくことになる―もっとも、君のほうでそれを望み、それを期待し、それを待ち受ける心構えが必要だよ。何よりもまず、君は、人間の行為に困惑し、驚愕し、はげしい嫌悪さえ感じたのは、君が最初ではないということを知るだろう。その点では君は決して孤独じゃない、それを知って君は感動し、鼓舞されると思うんだ。今の君とちょうど同じように、道徳的な、また精神的な悩みに苦しんだ人間はいっぱいいたんだから。幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記憶を残してくれた。君はそこから学ぶことができる―君がもしその気になればだけど。そして、もし君に他に与える何かがあるならば、将来、それとちょうど同じように、今度はほかの誰かが、君から何かを学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ。」

誰でも一度は立ち止まる壁にぶつかっているだけだ、みんなぶつかってきたんだ、と。

・・・他にも金言がたくさん眠っています。

「教育があり学識がある人間だけが世の中に価値ある貢献をすることができるなんて、そんなことを言うつもりはない。事実、そうじゃないんだから。しかしだ、教育や学識のある人間のほうが、溌剌たる才智と創造的能力は最初からあるものとしてだよ―不幸にして、そういうのは少ないんだけどね―しかしその場合には、単に溌剌たる才智と創造的能力だけの人間よりも、はるかにはかり知れぬほどの価値をもった記録を後に残しやすい、と、こういうことは言えると思うんだな。そういう、教育や学識のある人間のほうが、自分の考えを表現するにも、だいたいにおいて、明確に表現するし、たいていは、自分の考えをとことんまでつきつめてゆく情熱を持っている。その上―これが一番大事な点だが―十中八九、そういう人間のほうが、学識のない思想家よりも謙虚なものだ。わかるかね、僕のいうこと?」

私にはどこか主人公の描き方に太宰治が浮かんで見えます。高校生に限らず現代のワカモノにぜひオススメしたい一冊です。

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April 19, 2005

海辺のカフカ

授業の準備が半端なく忙しいです。卒業してから英語なんてまったくやってないのにA4の英語論文を20ページ読んで要旨をまとめてこいというのはキツイもんです。今日は20時で2号館の自習室を追われ、21時で図書館を追い出され、23時近くまで馬場歩き中にある喫茶店に入って英文読解でした。

変化のない日常を生きると、書けるのは何時まで勉強した、とか自分の専門教科か、という感じですな・・。あとはキャンパスとかとくに隈裏で何かあればすぐに報告はできますかね。

今日は「海辺のカフカ(上)」を読み上げました。章ごとに二つの場面が同時進行、そこに歴史的背景の記載が加わって上巻は話の素材をバラ撒いた、と。早く下巻が読みたいですね。いま日本で一番ノーベル文学賞に近い作家さん、でしょうね。

あと今日読んだのは以下の文献。

苅谷剛彦『教育の社会学』、同じく苅谷・天野郁夫・藤田英典『教育社会学』、斉藤純一『公共性』の該当部分の予習完了、私の研究テーマの参考文献マーチン・トロウ『情報化社会の大学』は途中まで。

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